
- 山田庄一(演出家)
- 国立劇場の草創期を知る方々の貴重なお話をうかがいます。
今回は、第2回に引き続き、演出家・山田庄一さんからうかがった文楽公演のお話の後編です。山田さんは大正14年(1925)、大阪・船場に生まれ、幼少期から上方の芸能に触れる環境で育ちました。大学助教授・新聞記者を経て国立劇場の創立メンバーとなり、演出室長・理事などを勤め、退職後は歌舞伎や文楽の演出家として活躍されています。
(この記事は、会報「あぜくら」令和4年(2022)1月号に掲載された特別インタビューを、ご好評につき再録するものです。)
通し狂言の想い出――昭和51年(1976)12月、国立劇場開場10周年記念
通し狂言『仮名手本忠臣蔵』が上演されました。
『仮名手本忠臣蔵』はやはり人気がありますね。国立劇場では、上演の度に昔の型を復活したりしたので、色々な演出を残すことができたと思います。
昭和42年(1967)12月の公演では、三段目「殿中刃傷」で、判官が師直を追いかけて上手の杉戸に入った後、舞台一面に御簾が下がり、師直と判官が御簾を切り破って飛び出してくる「御簾の間の刃傷」という演出を取り入れました。

『仮名手本忠臣蔵』「殿中刃傷の段」昭和42年(1967)12月
高師直:四代目桐竹亀松 茶道珍才:桐竹紋壽 加古川本蔵:二代目桐竹勘十郎 塩谷判官:二代目吉田栄三
昼夜通しの公演は色々やりましたけれど、昭和47年(1972)5月の『菅原伝授手習鑑』は、終演が午後10時近くになってしまい、劇場案内のチーフに怒られた怒られた。(笑)
何しろ昼夜公演の間の入替時間は15分ぐらいしか無いし、幕間も、「桜丸切腹」の後の20分休憩以外は5分か10分ですから、お客様はひもじいままでトイレにも行けない状態です。楽屋でも「わしら、飯食う間もない」と人形遣いに怒られました。特に若手の人形遣いは、人形を遣う以外の多くの仕事があって、ただでさえ忙しいのです。この時ばかりは楽屋に毎日お弁当を用意しました。
他にも昼夜通しの公演は、『伊賀越道中双六』『妹背山婦女庭訓』『本朝廿四孝』『ひらかな盛衰記 』『義経千本桜』『源平布引滝』『奥州安達原』『絵本太功記』『一谷嫩軍記』『彦山権現誓助剣』『生写朝顔話』『玉藻前曦袂』など、随分上演しました。
八代目竹本綱太夫には色々なことを教えていただき、「今度は何をやろうか」と、随分話し合いました。なかでも『木下蔭狭間合戦』は是非通し狂言で上演したいと計画していたのですが、昭和44年(1969)1月に綱太夫が亡くなって手掛けることができず、これは今でも悔やまれます。

『曾根崎心中』「天満屋の段」昭和43年(1968)6月
八代目竹本綱太夫 十代目竹澤弥七
文楽のかしら
文楽のかしらのこともお話ししましょう。
国立劇場の開場の頃、かしらは大阪の文楽協会で管理していましたが、国立劇場の齋藤正理事長が「大阪が火事にでもなれば、文楽が出来なくなるよ」と仰って、せめて『仮名手本忠臣蔵』が出来るぐらいのかしらを東京でも揃えたらどうかと提案されたのです。早速、文楽かしらの製作者・大江巳之助さんに頼んで、数年掛けてひと通りのかしらを揃えました。
その後、何か新しいかしらも頼もうということで、最初に頼んだのが『五天竺』。当時の大阪市立博物館に、壊れた孫悟空と猪八戒のかしらがあったので、それを見本に大江さんに作ってもらいました。しかし、沙悟浄がありません。色々考えた末に、沙悟浄は斧右衛門のかしらを基にして、舌がペロッと出る仕掛けにしてもらいました。
次に手掛けたのが『玉藻前曦袂』の玉藻前です。玉藻前も普段使わない特殊なかしらで、これは、娘の顔に狐の面が被さる「双面」と、前後に娘と狐の顔があってくるっと回して遣う「両面」の2種があります。
『五天竺』や『玉藻前曦袂』は、かしらが揃ったので上演出来たのです。この他に、酒呑童子は文七の5倍以上もある大きなかしらで、桐で作ってもらいました。童子の目が金色に変わり、口が空くと金歯になる仕掛けです。さらに、童子の顔に鬼の面が被さり、頭上には金色の角が出るという仕掛けもあります。これには大江さんがとても苦労したそうです。
大江さんがご存命の間に、文楽に理解のある理事長がいて、これだけ多くのかしらを作っていただいたのは、文楽にとって幸いなことでしたね。
昭和の名人
山田さんの心に残る国立劇場の舞台や、名人のお話をお聞かせください。
国立劇場には、二代目桐竹紋十郎の『艶容女舞衣』「酒屋」のお園の映像が残っていません。当時は公演記録の予算が少なくて収録できなかったためで、これはとても残念です。

『艶容女舞衣』「上塩町酒屋の段」昭和45年(1970)2月
お園:二代目桐竹紋十郎
紋十郎最後の舞台となった昭和45年(1970)5月の『義経千本桜』では、病を押してお里・典侍局・道行の静御前を勤めましたが、舞台を下りると楽屋のベッドで寝ている状態でした。その紋十郎が廻り舞台を一度使ってみたいと言うので、道行の静御前の登場の時に使ったことがあります。
最後まで、芸に対する探求心のある方でした。
国立劇場に入る前に観た舞台ですが、三代目吉田文五郎(難波掾)の『本朝廿四孝』「十種香」の八重垣姫は好かった。あんな可愛らしい八重垣姫はない、姫だけど色気があって…。
床の忘れられない名人は、豊竹山城少掾、三代目竹本津太夫、六代目竹本土佐太夫などですね。私は七代目豊竹駒太夫も好きでしたね。この人は盲目でしたが、床では床本をめくっていました。駒はんは巧かったなぁ。
初代吉田玉男の菅丞相
四ツ橋文楽座には昭和30年(1955)に閉場するまで通いました。
昭和19年(1944)11月の『菅原伝授手習鑑』の「丞相名残」は好かった。床が豊竹山城少掾(当時、二代目古靭太夫)・四代目鶴澤清六、菅丞相が初代吉田栄三、吉田文五郎の覚寿という配役で、中でも栄三の菅丞相が絶品でした。この日の山城少掾は風邪だったのか、声の調子が悪く、それが出来を左右するとは、よっぽど難しい曲なのだと思いました。
清六の三味線も好かったけど、それにも増して、栄三の菅丞相が好かった。これほどの菅丞相はないと思っていたのですが、平成14年(2002)5月国立劇場で、初代吉田玉男が最後に遣った菅丞相は、それを超えました。
木像の菅丞相の時は足を動かさないのです。栄三はそうやっていましたし、玉男も従来はそうしていました。でも、最後の菅丞相では足を動かしたのです。「足を動かさんと、贋迎いがおかしいと思うでしょう」と玉男も言っていました。その代わりに、かしらではっきり木像であることを表現しました。それを観て「栄三を超えた」と思ったのです。玉男最後の菅丞相をご覧になったお客様は、明治以降最高の菅丞相をご覧になれて幸せでした。

『菅原伝授手習鑑』「丞相名残の段」平成14年(2002)5月
菅丞相:初代吉田玉男
文楽公演の興味深いお話を沢山お聞かせいただき、ありがとうございました。
(取材 あぜくら会)