初代国立劇場を語る ⑲
国立劇場のことども坂東玉三郎

歌舞伎を愛した先生方
令和5年秋に国立劇場が建て直しのために閉場し、新規の施設に生まれ替わるそうですが、私は16歳の頃から国立劇場に出ていました。父の守田勘彌(十四代目)に連れられてのことですが、本当に沢山の芝居に出させて頂き、多くのことを学びました。

息女皆鶴姫を演じる玉三郎(右)
十四代目守田勘弥の虎蔵(中央)、三代目河原崎権十郎の奴智恵内(左)
『鬼一法眼三略巻』今出川鬼一法眼館菊畑の場
(昭和44年(1969)10月 第27回歌舞伎公演)
当時、国立劇場には歌舞伎好きな、そして心から歌舞伎を愛していた先生方がいました。大佛次郎先生、三島由紀夫先生、郡司正勝先生などが非常勤役員でしたし、制作室長の加賀山直三先生、演出室長の戸部銀作先生や、当時芝居作りに積極的に参画していた利倉幸一先生、山口廣一先生などもいらして、錚々たる、歌舞伎を取り巻く先生方がおられました。そういう厳しい先生たちがいて、芝居全体の流れとか、運びとかを外からというか、周辺からアドバイスしてくれる方が沢山いてくれたことが国立劇場の良さでもありました。

玉三郎の白縫姫、八代目松本幸四郎(初代白鸚)の鎮西八郎源為朝
『椿説弓張月』薩南海上の場
(昭和44年(1969)11月 第28回歌舞伎公演)
芝居作りの基礎
それと私が国立劇場で教育されたことは、松緑のおじさん(二代目尾上松緑)や、家の父の場合もそうでしたが、私が若い頃から芝居作りの現場にいられたことが国立劇場での一番大きな勉強でした。そのほとんど初演と言ってもいいほどの台本作りから、復活の稽古場にいられたことは大変な勉強でした。松緑のおじさんの正月公演はほとんど創作に近いものでした。この現場に終始いられて、初日から千穐楽まで御一緒できたということが、私が大人になってからの芝居作りの基礎になりました。それが非常に大きかったと思います。そして、三島先生、加賀山先生、郡司先生が「芝居というものがどういうものか」っていうことを、厳しく言って下さったということです。今はもう少なくなった雰囲気ですね。稽古の現場には素晴らしい雰囲気がありました。10代の半ばから、松緑のおじさんが亡くなるまで国立劇場でずっと勉強できた、これが私の国立劇場の一番大きい意味で、最も良い時代の教育の場としての国立劇場に私がいられたというのは幸せでした。鳴物の田中傳左衛門(十一代目)さんとか附師の杵屋栄左衛門さんにも色んなことを教わりました。

芸者妲妃の小万 実は 神谷召使お六を演じる玉三郎(右)
初代尾上辰之助(三代目松緑)の薩摩源五兵衛(中央)、片岡孝夫(現 仁左衛門)の船頭笹野屋三五郎(左)
『盟三五大切』二軒茶屋の場
(昭和51年(1976)8月 第79回歌舞伎公演 [小劇場])
国立劇場の功績
それと歌舞伎俳優養成の仕事は本当に良かったですね。今活躍している役者さんの多くが養成の出身者です。これがなかったら今の歌舞伎はないと言ってもいいくらいですね。国立劇場の果たした役割ということになると、これはまさしく素晴らしい事柄になると思います。松緑のおじさんや成駒屋(六代目中村歌右衛門)さん方が亡くなるまでの国立劇場は「大功績」を残されたと思います。時代は変わりましたが、何年か後に生まれ替わる国立劇場がどんなものになるのか、大いに期待しています。
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/国立劇場のことども 坂東玉三郎〉