初代国立劇場を語る
2023.09.11 更新

初代国立劇場を語る ⑯
国立演芸場の思い出神田松鯉

初代国立演芸場スペシャル

国立演芸場設立と大師匠方

当時、国立演芸場の設立のため、参議院議員でもあった一龍齋貞鳳先生をはじめとして、寄席の芸人のトップたちが集まって運動していました。うちの師匠(二代目神田山陽)もその一人だった。ある日急に師匠から、急用が出来たので代わりに役所の会議に出席しろと言われて行ったら、「なぜ山陽先生が来ない」と貞鳳先生に怒られましてね。こんな若輩者が行ったんですから、そりゃそうでしょう。でもこっちだって師匠に言われたら断れませんからね。仕方なくすみっこに小さくなって座っていました。これが国立演芸場の、最初の、強烈な思い出ですな(笑)。

あの頃、落語には何軒かの寄席があったけれど、講談には本牧亭しかなかった。国立演芸場が出来て本当にうれしかったし、講談の会も頻繁にありました。TVの収録もよくありましたね。

思い出すこと、いろいろ

昭和59年3月の「講談特選会」では2日前に亡くなった母の告別式に出ないで出演したのをよく覚えています。その日はネタ出しの会だったから、『隆光の逆祈り』なんていう、人を呪い殺すネタをやりました。ネタ出しでなければ違うネタにしたと思います。芸人の宿命っていうんでしょうか。

国立演芸場の公演では普段会わない協会の方とご一緒できて楽しかったですね。そう言えば楽屋のモニターテレビの向かいの壁に大きな鏡があって、その前に座って鏡越しに上下(かみしも)が逆になった画面を面白く見てました。

国立演芸場ではいろんな演芸の新作脚本を募集していて、平成13年、15年、18年と講談の選考委員をやりました。受賞作を高座にかけたこともあります。ただ脚本どおりに一言一句変えないままでは難しい、口調が違いますので。その時のご縁で今でもお付き合いしている作者の方もいますよ。

俳句では私は俳句結社『百鳥』の同人をしていますので、国立演芸場の題材で、正月の初席の「酒樽を飾り高座の御慶かな」と秋の句では「鰯雲寄席に隣し裁判所」の二つが掲載されました。隣の最高裁判所って、寄席とは性質が真逆の場所だけど、片方は現実に、片方はネタの中で人生の機微に触れるので、その思いを鰯雲(秋の季語)にたくしました。

この数年は国立演芸場カレンダーにも高座の写真を載せていただいているのがうれしい、今年は表紙になったから、ご贔屓にも配りました。

歌舞伎との縁

去年9月に弟子の伯山と歌舞伎座で親子会を開きました。実は講談に入る前のほんの短い間、大部屋の歌舞伎俳優でした。師匠は中村歌門、名前は花三郎。師匠の父は噺家の二代目談洲楼燕枝で、本当に不思議な縁だと思いましたね。噺家の息子が歌舞伎俳優で、その弟子が寄席の芸人になって、そしてまた歌舞伎座に出て。歌舞伎座は新しくなったけれど、やっぱりどこか懐かしかったです。弟子たちがこの日のために楽屋暖簾を拵えてくれて、うれしかったですね。寄席では使わないから勿体なくて。いつかもう一回国立劇場ででも使えればいいけど。

国立演芸場再開場に向けて

国立演芸場再開場の時には87歳、杮落としにはぜひ出たいね。えっ、健康のために何かやっているかって、なにもやってません。高座に上がること、好きなお酒を飲むこと、それが元気の基になっている。講談教室で教えている生徒とも飲みますよ、弟子は全く飲まないから(笑)。

伝統芸能の未来

伝統芸能というのは日本の貴重な文化や歴史の積み重ねなんです。それを背負って立つ若い人は誇りを持って携わってほしい。そして世の中も逆に彼らが誇りを持てるように彼らを取り巻いてもらいたい。そういう世の中を作ること、本来は大勢の人がやるべきことを国がやってくれている。誇りをもって積み重ねていけば、やり甲斐も出てくるし、なり手も増えていくと思います。

〈初代国立劇場を語る-初代国立演芸場スペシャル
/国立演芸場の思い出 神田松鯉〉

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