初代国立劇場を語る
2023.07.06 更新

初代国立劇場を語る ⑨
国立劇場と私宮城能鳳

初出演のこと

私が初めて国立劇場に出演しましたのは、昭和49(1974)年1月に行われた「組踊と雑踊」という公演です。この公演は、沖縄が昭和47年5月に本土復帰を果たしてから、国立劇場で最初の琉球芸能公演でした。その幕開きの舞踊『松竹梅』で松を勤めました。厳粛で華やかな祝儀舞踊で、松は最初に登場して一人で踊り、それから最後の総踊りまで竹・梅・鶴亀が順に踊るのをじっと待っています。舞台から客席を見ると、満席のお客様の顔が舞台明かりに照り映えて輝き、復帰の喜びと重なって誇らしい気持ちになりました。この公演では組踊『大川敵討』も上演され、原国兄弟の兄・松千代を勤めました。沖縄でもめったに上演されない大作で、原国兄弟は口説の踊りもあって最後には見事に敵を討ち取ります。私は初役でしたが、眞境名由康先生が稽古場でも自ら立って稽古をつけてくださり、無事に勤めることができました。

それ以後も、国立劇場における琉球芸能公演の多くに出演させていただき、そのつど感動と喜びをいただいて参りました。

『松竹梅』の「松」を踊る能鳳
(昭和49(1974)年1月 第4回琉球芸能公演「組踊と雑踊」)

思い出深い舞台

戦後、琉球舞踊は隆盛を取り戻しましたが、組踊は男性実演家の人数が足りず大きな問題でした。沖縄県立芸術大学では平成2年より琉球芸能専攻が開設され、私も組踊の教授として育成にあたりました。一生懸命に指導しましたが、卒業後の進路の見通しは明るくなく、模索していた時期でもあります。

そのなか、平成13年3月に国立劇場小劇場で行われた2日間3回公演の「琉球王朝の芸能-戌の御冠船踊」は、強烈な印象として今も思い出されます。毎回番組が変わり、組踊は『二童敵討』『銘苅子』『孝行の巻』が日替わりで、それぞれ女踊2~3番と若衆踊が1番踊られたのですが、ほぼ全ての役を県立芸大を卒業したばかりの二十代ほどの若手男子が勤めました。公演タイトルにある琉球国の「御冠船踊」は士族の子弟や青年らが演じていたことから、その再現のため若手が抜擢されたのです。私も女七踊のうち『諸屯』『伊野波節』『柳』を踊り、組踊では母役を演じました。それだけでも気の張ることなのですが、それ以上に教え子たちが無事に舞台を勤められるか心配で、稽古場で指導している時から全く気が抜けない公演でした。それでも観客の喝采を受け、出演者一同おおきな自信となったのです。

能鳳の『諸屯』
(平成13(2001)年3月 第9回琉球芸能公演「琉球王朝の芸能」)

国立劇場おきなわと、養成研修

その後、平成16年に国立劇場おきなわが開場し、琉球芸能の上演の機会が飛躍的に増えました。また、一年間の準備を経て平成17年から「組踊養成研修」が開始されます。その一期生から「組踊立方」の主任講師を拝命し現在も七期生を育てていますが、すでに卒業した修了生の多くは琉球芸能界を背負うほどの目覚ましい活躍を見せています。

あこがれの舞台

国立劇場は、すべての実演家にとって憧れの舞台であり、最高の修練の場でもあります。私は、国立劇場が琉球芸能を盛り立ててくださってきたことに、言葉に尽くせぬ感謝をいたしております。

その思い出の国立劇場が建て替えられることは寂しいですが、未来へ伝統のバトンを継いでいくためと思うと頼もしいことです。国立劇場がこれからも発展されていくことを、心より祈念申し上げます。

〈初代国立劇場を語る
/国立劇場と私 宮城能鳳〉

国立劇場は未来へ向けて
新たな飛躍を目指します