初代国立劇場を語る ⑧
名手たちの記憶井上八千代

大劇場に圧倒
昭和49年10月に初出演した「京舞」は、祇園町を挙げての大きな公演でしたが、十代の私は怖いもの知らずで、嬉しさいっぱいで舞わせていただきました。あの当時は劇場の所作舞台で舞う経験が少なかったので、祇園甲部の舞台のように足拍子を踏むと大きな音がして驚いたこと、前へ出過ぎてご注意を受けたことも懐かしい思い出です。
大劇場の正面玄関には黒塗りの車が連なり、大入りのお客様で賑々しいロビーや、客席の雰囲気に圧倒されました。
「京舞」はその後「京舞名作集」をいれて六回お招きを受けています。令和元年11月に6回目が無事に公演できたのは、その後のコロナ禍のことを思うと、奇跡的なタイミングやったと思います。
舞の会への出演
毎年の「舞の会」は、上方の舞を東京に広めてくださった大切な公演です。昭和51年の『相模あま』から、昨年の初代国立劇場さよなら公演の『珠取海女』まで出演させていただき、ありがたいことやと思います。
昭和の頃は、大先輩の名手の方々がゆるぎない自信を持って舞を披露されていました。楳茂都陸平先生、武原はん先生、(四世)山村若先生、吉村雄輝先生、山村楽正先生。若い時分に先輩方の芸を間近で拝見でき、楽屋でのお姿にも触れさせていただけたのは幸せなことでした。
『珠取海女』は思い入れも深く、昭和55年のおりは、祖母の『珠取海女』をたいそう好まれた武智鉄二先生が舞台をご覧になられて、厳しいご指摘を受けました。平成16年には初めて鬘をつけず地髪を結い、着流しで舞いました。あれから二十年、素で舞うことがようやく馴染んできたように思います。

『珠取海女』を舞う八千代
「舞の会-京阪の座敷舞-」
(令和4(2022)年11月 第171回舞踊公演)
共演者からの刺激
十代最後に、昭和50年「獅子の舞踊」で京舞『石橋』を舞わせていただいたときに拝見した、中村富十郎丈の『鏡獅子』は衝撃的でした。大劇場ロビーにある平櫛田中作・六代目菊五郎の鏡獅子像の持つ力感と弾む身体、舞台の神の存在までも感じさせる踊りでした。山村楽正先生の『歌右衛門狂乱』(「狂乱物の舞踊」、昭和63年)も鮮やかな扇遣いとともに、舞台上で唯一無二の存在を見せてくださったように思います。
『ましら』を舞った平成13年の「日本舞踊の楽しみ」は動物をテーマにしたユニークな公演でしたね。翌年の「忠臣蔵の舞踊」では大石(内蔵助)をテーマにした『深き心』を舞わせていただきましたが、これも国立劇場ならではの、良い企画でした。
歌舞伎では三津五郎さんが八十助時代にお蔦と宗五郎の二役を演じられた『新皿屋舗月雨暈』が忘れられませんね。私は、魚屋宗五郎は三津五郎さん、髪結新三は勘三郎さんで見続けられると信じておりました。お二人とも同世代でいつも前を走ってくださる方でしただけに寂しいことでございます。
再開場への期待
私は、流儀の勉強会やおさらえ(お浚い)以外には、東と西の国立劇場の舞踊公演に育てていただいたと思っております。京舞井上流の本拠地・祇園甲部歌舞練場も耐震工事のため七年間閉場し、この春ようやく新装開場いたしました。再開場まで公演を継続する事の大変さは重々お察しいたしますが、日本舞踊にとって国立劇場は無くてはならない劇場です。叡智を集め工夫を凝らして、閉場後も国立主催の舞踊公演を続けていただきたいし、更に申せば、再開場後、文楽公演のない期間、小劇場にて日本舞踊の連続公演ができることを願ってやみません。
付け加えれば、発表の場である劇場と、大・中・小の稽古場を使用できることも私にとって大きな意義がありました。また、資料室の一環としてでも、各種機能を兼ね備えたスタジオの設置を望みます。
再開場された後に、上方舞各流派が揃って国立劇場で華やかに競演できますよう、互いに手を取り合い、我が道をひたすらに歩み、その日を迎えたいと思います。
〈初代国立劇場を語る
/名手たちの記憶 井上八千代〉