初代国立劇場を語る ④
試練を乗り越え財産に豊竹咲太夫

国立劇場開場
国立劇場の開場で思い出すのは、何といっても昭和41年11月開場公演の時に、綱子太夫から咲太夫に改名したこと。劇場が57年なら、咲太夫になってからも57年ということで、この劇場に育てていただいたようなもので感慨深いものがあります。できた当時はなかなか集客力が低くて、2年間ぐらいは客席に100人いるかいないかの時がありました。近くに地下鉄の駅はなく、あるのは都電やバスくらいで交通の便が悪かったです。ここに劇場があるということも、東京の人にまだ十分認知されていなかったような印象です。
襲名披露公演
襲名披露は『鬼一法眼三略巻』の菊畑の段でした。父(八世竹本綱太夫)が鬼一で私が虎蔵ほかの掛け合い、三味線は父の相三味線であった竹澤弥七師匠、人形は私の語る虎蔵を桐竹紋十郎師匠に遣っていただき、鬼一は先代桐竹勘十郎師匠が遣われました。国立劇場として、とにかく珍しいものを、そしてできるだけ通しでという劇場のご希望もあり、また季節も秋のものをということでこの狂言になったそうです。「鞍馬山」から始まって「書写山」そして私と父との二人が並んだ「襲名披露口上」、その後「兵法」があってから「菊畑」。それからおなじみの「五条橋」という流れでした。当時は「大蔵館」も出そうかという話もあったようですが、これは結局実現しませんでした。とにかく「菊畑」にしてからが人形入りで出たのが明治以来という珍しい出し物でしたが、父が戦前に六世鶴澤友次郎師匠にみっちり稽古していただいた。研究熱心な父がこの演目を何とか残そうと意欲があったからだと思います。私も当時は22歳。父や弥七師匠以外にもあちらこちら稽古に伺いました。今考えたら馬力はありましたね。

『竹本綱子太夫改め初代豊竹咲太夫襲名披露口上』
(昭和41年(1966) 11月 第1回文楽公演)
八世竹本綱太夫(右)と咲太夫
父の死を乗り越え
その後40年にわたって様々な会場で開催した「咲太夫の会」の第1回公演を、昭和44年5月26日にこの小劇場でやらせていただいたことは忘れられません。前年から企画を立て、いよいよ準備が佳境に入った1月3日に父が亡くなったのです。大きな支えであり目標が失われ、もう茫然自失でした。そこを何とか気を取り直し、死に物狂いで開催にこぎつけました。『嬢景清八嶋日記』日向嶋の段を素浄瑠璃で、曲亭馬琴作の『化競丑満鐘』を上の巻は朗読と尺八で、中の巻は人形入りで上演しました。私の人生において大きな試練でしたが、それを乗り越えたことはかけがえのない財産となったと思います。
文楽の行く末
最初は入りの悪かった国立劇場もいろいろ努力した甲斐があって、お客様が増えるようになってきた、そしてお客様の層もお若くなられたというかずいぶん雰囲気が変わってきました。古典芸能を鑑賞しようという空気が感じられ、大変結構なことと思います。ただ、ここ数年は新型コロナウイルス感染症の影響でだいぶ様変わりしましたし、これから閉場後は外の劇場で興行を打っていくわけですが、あちこち会場が変わるということなので、せっかくのお客様が離れていかないか、それを懸念しています。

『曾根崎心中』天満屋の段
(平成29年(2017) 2月 第198回文楽公演)
国立劇場開場50周年記念公演での咲太夫と三味線の鶴澤燕三
新しい劇場に
とにかく、今の小劇場が文楽にとって大変頃合いが良いのです。客数が600弱で、文楽の上演にとってはとても良い大きさだと思います。次の国立劇場がどのようなものになるのかは存じませんけれど、今のような文楽に合うものが維持できればありがたい。また舞台機構も素晴らしいものができると思いますので、ぜひとも新作にも挑戦できるようなところになって欲しいです。もちろん古典もやって、新作もやれる劇場で、文楽に常に新しい息吹が送られることを願っています。
〈初代国立劇場を語る
/試練を乗り越え財産に 豊竹咲太夫〉