初代国立劇場を語る ③
開場記念公演から今日まで片岡仁左衛門

開場記念公演への出演
昭和41年(1966)の国立劇場開場記念式典は客席から見ていました。先代の田中傳左衛門さんの一番太鼓が響き渡り、三番叟が上演され、何と言っても“お国の”劇場が建つというのは初めてでしょう、緊張感がありましたね。
開場記念の第1回公演『菅原伝授手習鑑』で、私のセリフが役者の第一声だったことは、後でそう言われて初めて気づきました。実は全く意識しておらず、普段歌舞伎では出ない大序でしたから、それからして緊張していました。

『菅原伝授手習鑑』
(昭和41年(1966) 11月 第1回歌舞伎公演)
仁左衛門(当時孝夫)の斎世の君
開場当時の劇場
国立劇場は、客席に桟敷がなく、花道に立つと背景が壁ですから、最初はやりにくく感じましたね。多目的な劇場ということかもしれませんが、照明なども歌舞伎らしいぬくもりがないと気になったことがありました。
お客様には見えない部分ですが、舞台がゆったりと広いのは大きな特徴ですし、楽屋も、床山さんや衣裳さんなどもすべてワンフロアで揃ったところは、随分助かります。楽屋のお風呂も広くて気持ちいいんですよ(笑)。
小劇場の舞台はこぢんまりとしていて、客席も近く、締まった芝居ができます。『盟三五大切』や『恋飛脚大和往来』などで小劇場に出させてもらいましたが、元々歌舞伎はこれくらいの大きさでちょうどいいのかもしれません。

『恋飛脚大和往来』
(昭和58年(1983) 4月 第121回歌舞伎公演)
仁左衛門(当時孝夫)の亀屋忠兵衛、
片岡我當の丹波屋八右衛門、
四代目中村雀右衛門の遊女梅川
公演記録の意義
公演記録映像を残すことを国立劇場で取り組んだ意義は大きい。当時まだ役者は反対していたんです。それを残してもらって、今となってみればこれが無かったら大変でした。喜の字屋のおじさん(十四代目守田勘弥)の『桜姫東文章』(昭和42年)の映像も見せていただいて、とても助かりました。黙阿弥ものなどをやるときに、私は関西ですから、江戸の役者さんのアクセントも参考にしています。普段上演しない場面を勉強したい、といった私たち役者の使い方では、映像は引いて舞台全体が見えるほうがありがたい。
台詞のひと言にどれだけの思い、どういう気持ちを込めているかを映像から汲み取るのは、それぞれの持っているアンテナによりけりです。どんどん生の芝居を観て、時には記録映像も利用して、勉強すべきだと思います。
養成研修
国立劇場の研修制度がなかったら、とくに竹本は存続が難しかったでしょう。僕らほんとにね、義太夫さんがいなくなったらテープでやることになるのかな、と思っていました。父(十三代目片岡仁左衛門)は、ちょっと三味線貸しなさい、こう弾くんやから、とやってみせた。義太夫さんに的確に注文を出せるのも、父や岡本町のおじさん(六代目中村歌右衛門)が最後かもしれません。役者も研修制度がなかったらどうなっていたか。研修出身者も増えました。今の若い人は、みんなしっかりしていて、大したものだと感心します。引き続き歌舞伎の勉強をしていってほしいですね。
鑑賞教室、通し狂言
歌舞伎鑑賞教室でも第1回公演(昭和42年)に出演しました。当時、学校によってはお行儀が悪くて辛かったですが(笑)、当時20代の我々若手には、大変に勉強になる機会を与えていただきました。それから歌舞伎を観るようになった方もいらっしゃる、これは大きいですよね。お勉強ばかりでなく、“芝居見物”として長く楽しんでいただけたらいいですね。
それから東日本大震災で中止となった平成23年(2011)の『絵本合法衢』を、翌年再演して、そのあと同じメンバーで宮城県へチャリティー公演に行ったことを印象深く覚えています。天下泰平、国土安穏と銘打った『寿式三番叟』と『身替座禅』を観ていただきました。

『絵本合法衢』(平成24年(2012) 4月 第279回歌舞伎公演)
仁左衛門の左枝大学之助、四代目市川左團次の高橋瀬左衛門

仁左衛門の立場の太平次、中村時蔵のうんざりお松
あとは何と言っても通し狂言。これはできる限り続けてほしい。私は国立劇場でいま言った『絵本合法衢』や『霊験亀山鉾』などを通しで演らせていただいて、おかげで私の財産になりました。歌舞伎にはドラマ重視で映画でも作れる作品がありますが、歌舞伎じゃなきゃ無理だなという作品もたくさんありますから、そういう古典を残さなきゃいけないと思っています。
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