初代国立劇場を語る ①
初役の勘平尾上菊五郎

初出演と通し狂言の経験
国立劇場にはたくさんの公演に出演しましたが、歌舞伎俳優の中で最多の100回以上とは思いませんでした。
最初の出演は、開場から1年半ほど経ってからの昭和43年(1968)で、それまではお呼びじゃなかった(笑)。まだ菊之助時代で、辰之助(三代目尾上松緑)、新之助(十二代目市川團十郎)といっしょに「三之助」などともてはやされていましたが、当時は芝居が少なくて、若手は出る幕がなかった。出ても、二十五、六歳なんてまだ鼻たれ小僧もいいところで、先輩方に言われるがままでした。国立劇場ができたときは、ここは若い人を発掘する場ではないか、と思いました。

『通し狂言 摂州合邦辻』
(昭和43年(1968) 6月 第16回歌舞伎公演)
菊五郎(当時 四代目尾上菊之助)の浅香姫、
七代目中村芝翫の俊徳丸
最初の公演の『摂州合邦辻』は、実はあまりはっきりと覚えていないところもあります。
印象深いのはやはり通し狂言。「弁天小僧」も、「八犬伝」も、「天一坊」なども、国立劇場で通しを経験しました。一度通しで演じると、次に見取りで「浜松屋」と「勢揃い」だけやってもとてもやりやすい、役が身体の中に入っているから。本当に勉強になりました。そういう意味で国立劇場に育てていただきました。
芝居の工夫と初春公演
『児雷也豪傑譚話』(昭和50年3月)のときは、まだ若かったので自分でこうしたいなと思っても、父(七代目尾上梅幸)や(十七代目市村)羽左衛門さんがいましたから。
そのあと、紀尾井町のおじさん(二代目尾上松緑)が正月の公演で復活狂言を苦労しながら工夫してまとめていくのを間近で見ました。菊五郎劇団の先輩方も引き出しの多い人たちばかりでした。その稽古場に立ち会えたのは幸せなことですね。それが今、私もお正月に復活物などをいろいろ出させていただいている原点です。

『通し狂言 遠山桜天保日記』
(令和5年(2023) 1月 第330回歌舞伎公演)
菊五郎の遠山金四郎、坂東楽善の遠山家家老簑浦甚兵衛、
坂東亀蔵の遠山家用人樋口善之助
流行りの話題でお楽しみいただくのも以前からの伝統で、それを考えるために、普段からテレビのコマーシャルをよく見ます、売るために社運をかけて作るからね。何でも吸収してやろうという貪欲さ、歌舞伎ってそういうものですよね、どちらかというと。
それに初春公演の稽古場は雰囲気が良くて、気心の知れたみんなで考えを出し合って、とても楽しく取り組んできました。最初のころは、簡単にはまとまらず、遅くまで稽古をしたりしていたけれど、十何年やらせていただいて、その積み重ねがものを言います。それに正月の公演は年末に稽古して、休みがあって、2日舞台稽古がある、その間の休みがけっこう効くんです、フッと違うアイデアが出てきたりして。
鑑賞教室の記憶と先人からの教え
歌舞伎鑑賞教室にもたびたび出演しました。
『仮名手本忠臣蔵』の勘平を初役でやらせてもらったのが一番印象に残っています。紀尾井町のおじさんに教わり、六代目(尾上菊五郎)を見ている人も教えてくれて、役が身体の中に入っていきました。勘平の「とんでもないことをしてしまったなあ」と言って、ゴザを丸めて後ろへポンと投げる、あそこが若いうちは本当に難しかった。
ときには気持ちの入れ方に迷うことがあります。そんな時に若い頃に教えていただいたことをふと思い出すと、「よし、これでいいんだ」と納得できる、原点に戻れる経験が財産になっています。
まあ当時の鑑賞教室は、客席が騒がしくて、芝居どころじゃないこともありましたけどね(笑)。いまはちゃんと見てくれています。地方の劇場でもそれをまねして、学生に見てもらったりしています。こっちも勉強しなくちゃいけないけど、お客さんにも育ってもらわないといけない。

菊五郎(当時四代目菊之助)の早野勘平、
(右)七代目坂東簔助(九代目三津五郎)の不破数右衛門、
(左)五代目市川男女蔵(四代目左團次)の千崎弥五郎
『仮名手本忠臣蔵』
(昭和45年(1970) 7月 第4回歌舞伎鑑賞教室)
国立劇場の閉場
思い出の多い劇場が閉場ということで、寂しい気持ちはあります。
新しい劇場ですが、役者としては使いやすい楽屋があれば申し分ありません。
あとは、ここに新しい演劇の街みたいなものができて、お客様が気軽に立ち寄ってくれて、ひと幕見ようかと言ってもらえるような、そんな劇場ができたらありがたいなと思いますね。
〈初代国立劇場を語る/初役の勘平
尾上菊五郎〉