国立劇場でのあの日
十七年前のまだ蒸し暑さの残る夕暮れ時でした。出張先での東京でふと時間が空き、学生時代に文楽を観た事を思い出し急に行ってみようと国立劇場に向かいました。
半蔵門の駅からは途中雨が降り出し濡れて走りました。
東京に来てからも体調は優れず、見てわかる体の異変もありました。風邪や疲れなどではない、ただならぬ病気なのかもという不安は確信に変わってきていました。
当日券はあるだろうかと大きなガラス扉を入ろうとした時突然声をかけられました。
「今からの公演のチケットはお持ちですか?」
白地にオレンジ色の模様が入った着物姿の綺麗な方でした。
「楽しみに席を取っていたのですが、急用ができ戻らなければなくなって、どなたかにとここにいたんです。」と言われました。
「当日券があればと思って来たんです、買わせて下さい。」と答えると「いえとんでもないです、観て頂ける方にお渡しできてよかったです。」と私の手にチケットと小さな傘をのせるとさっと車に乗っていってしまいました。
お礼もちゃんと言えていない事に気づいた時にはもう車の姿は見えませんでし
た。
場内に入ると下手側前から二番目のとてもよいお席でした。演目は『女殺油地獄』。初めて観る桐竹勘十郎さんの気迫ある姿とお人形たちに圧倒されました。
数ヶ月後、私の体の異変はやはり癌と分かり手術が決まりました。
入院した病室では身体を休めたいと静かに劇場の売店で手にした文楽の本たちをずっと読んでいました。愛や情や死を自分に擦り合わせながら。
癌はその後再発もありましたが、どうにか乗り越える事ができ今は元気に過ごしています。
あれから文楽好きになり、取る席はいつも下手側前から二番目。
それにしてもあの白いお着物の方は雨に濡れながら走ってくる私を見つけ、楽屋口から飛び出してきてくれたお人形さんだったのではと、ふとふと思うのです。
(高野久美子様より)