本文へ移動
公式アカウント
公演カレンダー チケット購入
English
カレンダー チケット
国立劇場

トピックス

令和5・6年度国立劇場≪歌舞伎脚本募集≫選考の経過

 今回は104篇の応募作品が寄せられ、応募者数は95名(うち2名による共作が1篇)であった。世代別でみると、10代から90代まで幅広い応募があったが、50代及び60代の応募が全体の5割近くを占めた。また、初めての応募作は全体の6割近く(60篇)あった。

 今回の応募作品は、従前と同じく歴史劇、世話物、翻案、幻想的作品など様々な種類にわたっていた。しかし、多くの場合、描こうとするねらいを発展させて作品を完成させる構成力、表現力が不十分であると思われた。或いは、比較的熟達した手法によってまとめられていたが、展開に起伏、掘り下げ、意外性がなく、構想の仕方が不十分という場合もあった。これらのことから、着想のユニークさを生かす構成、表現を備えることが強く望まれる。

 また、台詞中の言葉遣いの未熟さ、不自然さが見受けられた。わかりやすさは大切であるが、現代語を台詞に入れるに際しては細やかな留意が必要である。

 選考会の対象作品は、内部選考を経て、下記の8篇が選ばれ、最終選考会にかけられた。

[選考対象作品](受付順)

  • 『盂蘭盆会再死神(うらぼんえごにちのしにがみ) 弓削 猿丸
  • 『水上琵琶声(すいじょうびわのこえ) マツダ ノリコ
  • 『藤巴戦国サロメ(ふじともえせんごくさろめ) 戸津 航
  • 『卯辰巳縁仇恋(うのたつみえにしのあだこい) 宮本 知佳
  • 『源五の茶杓(げんごのちゃしゃく) 山崎 赤絵
  • 『廓虎五月曙(くるわのとらさつきのあけぼの) 米原 信
  • 『江戸町奉行所仕舞(えどまちぶぎょうしょじまい) 江坂 雅紀
  • 『新平家公達草子(しんへいけきんだちぞうし)
     男女縁西海扇(にせのえにしさいかいあふぎ)
    安樂井 薫

 選考会は令和7年2月12日に行われ、大笹吉雄・岡崎哲也・竹田真砂子・西川信廣(50音順)の各氏と独立行政法人日本芸術文化振興会理事長・長谷川眞理子の5名の選考委員が出席した。

 上記の8篇について討議を行い、入選作品候補として『盂蘭盆会再死神』、『廓虎五月曙』、『新平家公達草子 男女縁西海扇』の3篇が選ばれた。

 選出されなかった5篇については、着想は優れていても、人物の行動に理解困難な箇所が多かったり、人物の描き方が不足していたり、都合の良すぎる処理が目立ったり、平板な芝居運びに終始していたりするなどの理由により、入選作品の水準には達していないとの結論に至った。また、言葉遣いに難があるものが散見された。

 入選作品候補の3篇についてさらに討議を行い、いずれも一定の水準には達しているが、優秀作の水準には満たないとの意見の一致をみたので、優秀作については該当なしとされ、『盂蘭盆会再死神』、『廓虎五月曙』、『新平家公達草子 男女縁西海扇』の3篇を佳作に選出した。

 入選の水準には達していないが将来を期待・嘱望される応募者に対して贈られる奨励賞は、該当なしとされた。

 今回は、応募作品の質という点で、総体的に従来に及ばないという厳しい評価だった。創作に対する的確な技術を獲得し、構想を十分に深めて執筆する態度が望まれる。


 入選作品の概要と講評は、次の通りである。


『盂蘭盆会再死神』

〔概要〕

 落語「死神」の後日譚として、死神に命を取られた父とその息子が再び出会うお盆の四日間の出来事を通じて、幽明境を異にした親子の情愛を描く。
 母とともに暮らす半太郎が死んだ父・丁助の新盆のために迎え火を焚くと、丁助の霊が現れる。丁助は自分が死神に殺されたことを告げ、病人に取り憑いた死神を消し去る呪文を教える。丁助とともに、見かけた死神を追い払う内、父の友人で半太郎の面倒を見ている大工の棟梁・甚五郎も死神に取り憑かれているのを知る。丁助は甚五郎を救うために母の命を犠牲にするように半太郎へ迫る。半太郎が母の代わりに自ら犠牲になる覚悟を決めると、以前出会った狐神が現れ、自分こそ丁助の霊で、半太郎をそそのかしていたのは丁助を殺した死神であることを告げる。一同が力を合わせて死神を退治した後、名残を惜しむ親子は来年も会うことを約し、丁助は朝日の中に消えていく。

〔講評〕

 筋立てや運びがしっかりとしており、芝居としてよくまとまっている。台詞の書き方が巧みで、心地よく受け取れる。主人公がお盆の供え物として細工した精霊馬・精霊牛が、本物になって大暴れする仕掛けなど、歌舞伎らしい視覚的に楽しめる要素が盛り込まれていることも評価できる。
 しかし、丁助の霊を騙っていたのが実は死神で、狐神に化けていたのが実は丁助の霊という設定は面白いけれども、このカラクリの仕掛けが効果的に機能しているように見えず、趣向が生きない。本物の狐神が出現するのも大袈裟で、神官で足りるのではないか。また、落語に着想を得ているためか、不要な台詞やト書きが散見される。芝居では俳優の仕草等で観客に想像させることを意識するべきである。さらに、市井の人情風俗を写す世話物であるにもかかわらず、ケレンである宙乗りが登場するショーめいた結末が作品に合うかは再考を促したい。このような近年の新作歌舞伎に見られる演出を取り入れるにあたっては、熟慮を要するであろう。外題にも工夫が必要である。
 以上の点を見直せば、後味のよい世話物となる可能性を秘めていると思われる。


『廓虎五月曙』

〔概要〕

 歌舞伎における曽我物の世界を活かし、曽我兄弟と大磯の虎・化粧坂少将との悲恋、十郎祐成の最期を描く。
 仇討ちを翌日に控えながら、大磯の廓で虎御前との遊びに耽っている十郎に、少将の手引きで座敷に忍び込んでいた五郎時致が怒って斬りかかる。扇一本で五郎を制した十郎が別れの水盃を酌み交わしに来ていたことを明かすと、虎御前の説得で、十郎と虎御前、五郎と少将は祝言の盃を上げ、兄弟は仇討ちへ旅立つ。残された虎御前は、十郎が首尾よく敵の工藤祐経を討った後、組討の末に御所五郎丸に首を討たれる最期の様を夢に見る。そこへ五郎丸と仁田忠常が現れ、五郎丸は十郎の最期を物語り、虎御前の夢が正夢だったとわかる。以前から虎御前に横恋慕していた仁田が女房になるよう口説くのを、虎御前は辛抱たまらず切りつける。軍兵が座敷を取り囲むと、十郎が虎御前に取り憑き、大虎を顕現させる妖術で座敷ごと潰してしまう。

〔講評〕

 義太夫狂言に挑戦したいという意欲が評価できる。作者のねらいにあるとおり、物語やクドキや夢の場があり、屋体崩しのスペクタクルもあるなど、歌舞伎らしい演出が存分に盛り込まれているところに好感が持てる。台詞や義太夫の詞章は、冗長の憾みはあるものの、擬古典としてよく書けており、作者の歌舞伎への並々ならぬ愛情が伝わってくる。
 ただし、五郎の第一声の「ベエ言葉」は、適当な使い方ではないだろう。また、『義経千本桜』の知盛と小金吾の最期を盛り込んだような手負事など、眼目となる場面が冗長である。ト書きの竹本については、序幕の中心となる「水盃」のやりとり等が典型例だが、見る側の心理から言っても長過ぎ、全体的に半分くらいまで刈り込みたい。十郎・五郎の兄弟が全体を通して饒舌にしゃべり過ぎ、例えば十郎との立廻りのあと切腹しかける五郎の台詞、虎と別れる水盃の場面の十郎の縁切りの台詞などは意味がよく伝わりにくいのではないか。二幕目の夢の場で描かれる敵討ちと十郎の最期が、次の廓の場において五郎丸が虎や少将に物語る中で再び描かれるのも、重複の感がある。また、五郎丸や仁田の描き方が定型的で、本筋への関わりも薄い。屋体崩しの趣向も導入の仕方に無理があろう。形式と娯楽という面に拘り過ぎて、物語作りが安易になされている面がある。
 場面や人物を整理し、台詞や義太夫の詞章を短くまとめれば、華やかな一幕になる可能性もあると評価された。舞踊劇仕立てにするのも一案であろう。


『新平家公達草子 男女縁西海扇』

〔概要〕

 一の谷の合戦を舞台に、戦乱によって運命を翻弄される人々を描いた悲劇。
 平通盛の陣所には源氏に与する猟師熊王丸の妹・若菜が間者として入り込んでいる。通盛は若菜に嫌疑をかける乳母子・時員の言葉を信じない上、夫を案じてやってきた妻・小宰相局を離縁し、若菜を女房にすると言う。その夜、熊王丸と若菜が落ち合っているところに現れた通盛は、二人から義経の鵯越の計略を聞き出す。通盛に謀られたと思った熊王丸は義経軍の攻撃を知らせに駆け付けた小宰相に斬りかかるが、若菜が身を挺して庇い、通盛のために兄を裏切ったことを語る。通盛は小宰相を陣所から落とした後、戦闘の末に討ち死にする。
 御座船に逃れた小宰相は、時員から通盛の最期を聞き、形見の扇で夫の魂を招く。すると、通盛の霊が現れ、現世での罪を悔悟し二世の契りを約す。夫を慕って入水しようとする小宰相を、二位尼が止め、夫の菩提を弔うように説いて比叡山へと赴かせる。

〔講評〕

 義太夫狂言としては一考を要し、情景描写が流れるように綴られていくのみという感が否めず、歌舞伎より浄瑠璃として書かれた方がよいようにも思われる。しかし、「戦乱によって運命を翻弄される人々」が面白く描かれているので、筋の運びを練り直し、義太夫の詞章を整理して、この面白さを生かすことが望まれる。物語の流れは平板であるが、第一幕の陣屋から第二幕の御座船への展開は気分が変わり面白い。義太夫の詞章については、比較的よく書けている。第二幕の通盛の霊と小宰相とのやりとりも味わい深い。「盛綱陣屋」などの先行作の名場面を彷彿とさせる点も面白い。
 望まれることは、これらを踏まえた、見る人を強く引き込み心に突き刺さるような仕掛けであり、それを過去の浄瑠璃の名作から学んでほしい。
 具体的な課題を挙げれば、第一幕の通盛の計略が分かりにくく、熊王丸、若菜、小宰相とのやりとりも悠長で、隠されたトリックと表裏一体となる緊密な会話となっていない。義太夫の詞章が冗漫であり、大幅に削る必要がある。外題の「西海扇」は那須与一をイメージさせてしまうため、考え直したい。また、熊王丸をもう少し活躍させてもいいだろう。
 台詞・詞章を引き締めて、見る人を泣かせ、唸らせるような情念に裏打ちされた趣向を盛り込むといった見直しをすれば、上演の可能性もあるだろう。

ページの先頭へ