シリーズ企画
いとうせいこうが聞く“文楽鑑賞の極意!” 国立劇場5月文楽公演その1 『源平布引滝』「実盛物語の段」
- いとうせいこう(以下いとう)
- では、第一部について色々とおうかがいしますが、なんといってもダブル襲名ですよね。
- 文楽マニア(以下マニア)
- はい。竹本綱大夫改め九代目竹本源大夫、鶴澤清二郎改め二代目鶴澤藤蔵。親子二代同時の襲名披露です。新源大夫、新藤蔵は四代にわたり大夫と三味線の芸を交互に伝える文楽でも稀な家系で、今回、お二人がそれぞれの祖父の名跡を襲名し、この公演では、襲名披露口上と襲名披露狂言として『源平布引滝』「実盛物語の段」が上演されます。
- いとう
- 『平家物語』で有名な斎藤実盛のお話。
- マニア
- この「実盛物語」は『源平布引滝』の三段目ですね。朝日将軍と謳われ、京の都から平家を追討した木曽義仲の誕生秘話なのですが、この話の主人公の斎藤実盛は、『平家物語』の「実盛最期」にあるように、平家方の武将で、加賀国篠原の合戦に白髪を黒髪に染めて出陣し、木曽義仲の家臣・手塚太郎光盛に討ち取られた老将です。義仲の前での首実験の際に、首を洗うと白髪首となり、白髪で参陣しては敵に老人と侮られると髪を黒く染めた実盛の勇敢な覚悟は、後世まで語り継がれています。
- いとう
- 泣かせる老人、というか老いて盛ん。年取ったとグチっていられません。
- マニア
- ちなみに、木曽義仲を敬愛し、死後は木曽義仲の墓所の隣に眠った松尾芭蕉(お墓は滋賀県大津市の義仲寺にあります)は、実盛の兜が納められている石川県小松市の多太神社を訪れた際に、「むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす」と詠んでいます。
- いとう
- はかないとか、さみしいとか、意気に感ずとか、日本的な感情をさまざま呼び起こす逸話ですもんね。
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多太神社芭蕉歌碑
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- マニア
- はい。また、能の『実盛』では、かつて幼少の義仲を匿った実盛が、篠原の合戦で義仲に討たれることを望み、それを果たせず手塚太郎に討たれた無念により、幽霊となって時宗の聖の前に現れます。蛇足ですが、北陸地方では、この実盛が稲に足を取られて、手塚太郎に討たれたため、「サネモリ虫」という稲の害虫となって祟るという言い伝えがあり、実盛人形という藁の人形を作って、これを村外れまで運んで焼くという虫送りの行事が今でもおこなわれているんですよ。
- いとう
- 無念の死、という事象は日本の芸能のおおもとですから、それが村の行事に息づいていることをあらためてよくよく認識しておかないといけませんね。その言い伝えの積み重ねの上にプロの芸能があるわけですから。
- マニア
- そうですね。ただし、今回の「実盛物語」では、実盛が颯爽とした黒髪の武者として登場し、太郎吉(後の手塚太郎)の母・小まんの敵として、やがて成人する手塚太郎と加賀国篠原の地で再会し、その時は髪を黒髪に染めて出陣して手塚太郎に討たれようと約束するところで幕になります。そして、『平家物語』の「実盛最期」で知られるように、約束通りに篠原の合戦で手塚太郎に討たれました、ということになります。このように、この一段が老将実盛がなぜ白髪を黒く染めて出陣したのか、その謎を解き明かすという趣向になっているのです。
- いとう
- なるほど、たくさんの物語を編むようにして、お話が出来ているんですね。
- マニア
- また、この一段には手孕村(てはらみむら、現在の滋賀県栗東市手原)の地名起源譚が盛り込まれています。享保19年(1734)の『近江国輿地志略』などに、女性が腕を産んだためにその村を手孕村と呼んだという話がありますが、この話を「瀬尾十郎詮議の段」の中に盛り込み、葵御前が男子を産んだかどうか詮議に来た瀬尾十郎を欺くために、九郎助夫婦が太郎吉が釣り上げた腕を使って、葵御前が腕を産んだと言ってその場を切り抜ける話が出てきます。これが、実盛がお芝居の舞台である小野原村を手孕村と名付けたという由来とされています。
- いとう
- またも言い伝えなどを見事につなげて一段としています。
- マニア
- もう一つ。近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂側の音瀬の浜には、小まんの腕塚と呼ばれている塚があります。もとは漂流していた腕を埋めた塚で、地元ではおとせという女性の腕が流れついたとも伝えられていますが、いつしか小まんの腕塚とも呼ばれるようになったとか。お芝居でも小まんが堅田の浦に捨てられていた子供であったという九郎助の述懐がありますが、この話と地元の伝説が交錯して今のような伝承が生まれたのかもしれません。
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おとせの石(小まんの腕塚、滋賀県大津市)
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- いとう
- 語りの複層性を知ると、文楽がひとつの『歴史』であることがよく伝わってきますし、その語りをひもとくように聞いていく楽しみも生まれます。