国立劇場あぜくら会

イベントレポート

あぜくらの集い「天野社の舞楽曼荼羅供について」を開催しました

東京学芸大学准教授 遠藤 徹氏
東京学芸大学准教授 遠藤 徹氏

9月5日、国立劇場9月声明公演『天野社(あまのしゃ)の舞楽曼荼羅供(ぶがくまんだらく)』(9月14日開催)に先立ち、東京学芸大学准教授の遠藤徹氏をお招きしてあぜくらの集いを開催いたしました。 遠藤氏は本公演を監修しており、高野山の鎮守社である天野社で行われていた「舞楽曼荼羅供」の成り立ちや歴史について、豊富なスライドの図版と映像を用い、わかりやすく解説していただきました。

「天野社の舞楽曼荼羅供」が約170年ぶりにその姿をみせる

和歌山県伊都郡に標高約1000メートルの山々が連なる真言宗の聖地、高野山。その鎮守社として、ほぼ中腹に鎮座する丹生都比売(にうつひめ)神社はかつて天野社とよばれ、高野山の僧侶が中腹の天野社にも定期的に降りてきて舞楽と声明の神仏習合による盛大な「舞楽曼荼羅供」が執り行われていました。このような形での舞楽法会が開催されたのは、高野山上で歌舞音曲が禁止されていたため。舞楽法会は形を変えながらも約600年間続く大変歴史の古いものでした。しかし、明治期に断行された神仏分離により神社の境内から仏教色が取り払われ、神社と高野山との関係が断ち切られることに。天保10(1839)年を最後に天野社での舞楽曼荼羅供は営まれなくなり、伝来品を残すのみとなっていました。 遠藤氏がこの独特な法会の研究を始めたのは7、8年前のことでした。 「天野社の宮司さんから、四つある本殿の脇障子にそれぞれ舞人の絵が描かれていると聞き、写真を見せていただく機会がありました。高野山開創以前から鎮座する天野社で、かつて大きな舞楽(舞を伴う雅楽)が行われていたことは以前から聞いており、調べてみたいと思いました」 このことをきっかけに遠藤氏の研究が始まり、約170年ぶりにその一端を垣間見せる今回の公演につながりました。

高野山鎮守天野宮図
忘れられていた『高野山鎮守天野宮図』(高野山東京別院蔵)も遠藤氏によって掘り起こされ、
本公演のポスターやプログラムなどに使用されました。

盛大に執り行われた舞楽曼荼羅供

「形を変えながら行われた舞楽曼荼羅供ですが、江戸初期から末期には遷宮の際の舞楽法会が恒例化しました。 このころから“三方楽所(さんぽうがくそ)”が出仕するようになります。三方楽所とは応仁の乱後に結成された京都、南都(奈良)、天王寺の楽人からなる禁裏出仕の合同楽団。三所の楽人が天野社へ出仕したことは音楽史上、意義が大きいと考えます。そして、天保10(1839)年が最後の執行例となりました」

本殿の現在の写真も紹介いただきました。
本殿の現在の写真も紹介いただきました。

僧侶120名、伶人30名が出仕する(人数は増減があり、さらに大規模な例も)「舞楽曼荼羅供」では田楽や猿楽(能)などの芸能も催され、僧侶の集会所(集合場所)・山王堂へ伶人が迎えに出向いて「一曲」を奏し、太鼓橋上で僧侶が『庭讃』を唱えるなどさまざまな決まりがあったそうです。これを関係者が“予習”するため具体的に描かれた「天野宮舞楽曼荼羅供荘厳図」(文化11年)が映し出されました。 遠藤氏により式次第に沿った説明があり、しばし当時の法会参加者と同じ目線でスクリーンに見入ってしまいます。このような史料が今回の上演にあたっては手がかりとなったそうです。 今回の公演の見どころの一つは神仏習合の儀式の様子が分かることです。声明「散華」と管弦「慶雲楽」、声明「合殺」と管弦「裹頭楽」が同時に奏されるポイントを説明していただきました。 最後に高野山上で毎年行われている『大曼荼羅供』の映像を見せていただき、会場内はひと時、荘厳な空気に包まれ公演への期待感が高まりました。

参加者のアンケートからは、「初めて知ることが多かったが、スライドやビデオの紹介があったので大変分かりやすかった」、「本番を観にいくのがより楽しみになった。」などの感想をいただきました。

あぜくら会では今後もこのような伝統芸能への理解を深める会員限定イベントを企画してまいります。
皆様のご参加をお待ちしております。

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