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文楽大夫 竹本文字久大夫さんを迎えて、「あぜくらの集い」を開催しました。

2月9日、文楽大夫の竹本文字久大夫さんをお迎えして、2010年第一回となる会員限定イベント「あぜくらの集い」が開催されました。国立劇場文楽研修制度出身の技芸員として活躍される文字久大夫さん。ご自身の生い立ちから始まり、芸能と関わりあいながら歩まれてきた人生についてお話された内容を、ダイジェストでレポートします。

演劇とミュージカルに心ひかれた学生時代

竹本文字久大夫さん

私は三重県の出身で、度会郡大宮町(現・大紀町)といういわゆるお伊勢参りにつながりの深い土地柄で生まれ育ちました。豊かな自然に囲まれた土地で、小さい頃は昆虫や植物の採集に夢中になり、野山を走りまわっていたような子供でした。この頃、太陽を一杯に浴びて育ったことが、現在大夫として日々舞台に立つ体力の源になっているのではと思います。

中学生のときには音楽に興味を持ち、クラシックを聴いたり、ギターを買ってもらって練習をしたりしていました。高校生になっても音楽への興味は続き、仲間とバンドを作って演奏していましたが、そんな折、テレビでNHK時代劇の『男は度胸』を見て、主演の浜畑賢吉さんの演技に感銘を受けたことがきっかけで演劇へ興味を持ちました。演劇部に入部した後、部活で演劇をやりながら、生の舞台を見に行くようにもなり、当時の平幹二朗さんの『ハムレット』(劇団四季)を見て感動し、将来はミュージカル俳優の道を志したいと考えるようになっていました。

新国劇に参加していた青春時代と、文楽との出会い

高校を卒業した後は、本格的に俳優を目指すために上京し、玉川大学文学部芸術学科演劇専攻へ進みました。大学時代に特に薫陶を受けたのは演劇評論家でもあった今尾哲也先生でした。先生の演劇の授業では主に時代劇をやり、大きな役をやらせていただき、意気に感じていました。先生からは、歌舞伎や新国劇を積極的に見なさいと言われました。大学2年生の時に劇団四季を受験し不合格になったこともあって、だんだんと時代劇に興味の方向が向きましたね。

大学卒業後は先生の勧めもあり、新国劇へ入りました。大御所である辰巳柳太郎先生のもとで書生(新国劇では弟子のことをこう呼びます)として修業をし、これが3年続きました。その間に初舞台を踏ませていただき、小さな役ではありましたが「努力賞」というものもいただくことができました。しかし突然、新国劇は倒産してしまい、またも自らの道を決めなければいけない岐路に立たされました。

俳優としての限界も感じていた中、当時の私は修養の一環として常磐津と花柳流の踊りの稽古に通っており、漠然と「次は邦楽に携われれば」と考えるようになっていました。そんな折に文楽のレコードを買い求めて聴いたのが、文楽との最初の出会いです。あまりにも素晴らしい語りと三味線による情景描写の力に圧倒され、みるみるうちに文楽の魅力のとりこになっていったのです。中でも義太夫の語りは、それまで俳優を目指していた私にとってあこがれの的になっていきました。

文楽研修生になって...現在まで

芸能やお芝居全般にわたりお話しくださった竹本文字久大夫さん

その後国立劇場で文楽の研修生制度があると知り、研修生となりました。2年間の研修期間の中で、1年目は大夫・三味線・人形遣いの三業をすべて基本から勉強し、2年目は三業の中からいずれなりたいものを選び勉強をします。2年目に迷うことなく大夫の勉強を選んだ私は、研修終了後に、かねてからあこがれ、入門を熱望していた竹本文字大夫師匠(現・住大夫)の弟子にしていただけました。

1982年7月の朝日座公演、私は大夫としての初舞台を踏ませていただきました。『彦山権現誓助剣』杉坂墓所の段の掛け合いの中の一人としてではありましたが、今までいろいろな舞台に立ってきたにも関わらず、大変緊張したことを覚えています。この頃が道頓堀朝日座の最後の頃で、昭和の文楽の名人たちが勢ぞろいした舞台が今も強く記憶に残っています。朝日座閉館後の1984年には国立文楽劇場が開場し、新しい文楽の本拠地として歴史が始まりました。文楽は一時期、お客様の入りが少ないさびしい時代が続いていましたが、最近は大阪、東京ともにかなりのお客様にご来場いただけるようになり、嬉しく思っております。

今まで印象に残っていることとしては、東京公演の折に、美智子妃殿下の前で『一谷嫩軍記』熊谷桜の段を勤められたことが一番です。その頃両親がいずれも病に臥せっており、とても喜んでもらえたのを覚えています。最後に親孝行ができた形になって本当によかったと思っています。

昨年9月より、文楽研修生の講師として招かれました。まだまだ研鑽を積んでいき、勉強を続けなければならない身なのですが、師匠からも「教えることも勉強の一部」だとお言葉をいただき、お受けすることにしました。偉大な師匠の教えをしっかり後世へ受け継がせていかなければならないと思い、背筋が伸びる思いでいます。

文楽の面白いこととして、例えば大夫の語りと三味線の関係を言えば、大夫の語りが三味線の演奏を追いかけてしまうことがあってはいけないものです。そのまた逆もしかりで、大事なことは、大夫は大夫の“イキ”を、三味線は三味線の“イキ”をしっかり持っていること。しかしだからこそ人形も含めて、それぞれの“イキ”が合った時には、最高のパフォーマンスをお客様にお見せできているというところが素晴らしいことだと思います。

これからも一生懸命勤めてまいりますので、どうぞ文楽をよろしくお願いいたします。

さまざまな芸能にふれあってここまでの道を歩まれてきた文字久大夫さんならではのお話からは、文字久大夫さんの真面目なお人柄が伝わってきました。芸能やお芝居全般にわたる内容を興味津々にお聞きになっていたお客様も多く、和やかな雰囲気で進んだあぜくらの集いでした。

あぜくら会では、今後もこのような会員限定イベントを随時企画していきます。皆様のご参加をお待ちしております。