日本芸術文化振興会トップページ  > 国立劇場あぜくら会  > 金原亭馬生さん、一龍斎貞友さん、高野実貴雄さんを迎えて、あぜくらの夕べ「円朝と歌舞伎と塩原多助」を開催いたしました。

イベントレポート

金原亭馬生さん、一龍斎貞友さん、高野実貴雄さんを迎えて、あぜくらの夕べ「円朝と歌舞伎と塩原多助」を開催いたしました。

左から一龍斎貞友さん、金原亭馬生さん、高野実貴雄さん 左から一龍斎貞友さん、金原亭馬生さん、高野実貴雄さん

8月20日(月)、国立演芸場にて、あぜくらの夕べ「円朝と歌舞伎と塩原多助」を開催いたしました。
国立劇場10月歌舞伎公演「通し狂言塩原多助一代記」の原作は、名人三遊亭円朝が、実在の炭商人塩原太助(劇中では多助)の生涯を取材し口演した人情噺です。この公演にちなんで、今回は落語家の金原亭馬生さん、講談師の一龍斎貞友さん、日本文化史研究者の高野実貴雄さんをお迎えし、苦難の中でも朴訥で正直な心を持ち続けた多助についてのお話と高座をお楽しみいただきました。

一龍斎貞友 このたび、10月の国立劇場におきまして、三津五郎先生の「塩原多助一代記」初上演ということでございますけれども、まず最初に上演されましたのが、なんと明治25年だそうでございます。菊五郎により歌舞伎座で上演されたわけでございます。その後、明治45年に市村座、そして明治座の方では六代目菊五郎が演じているわけでございます。通し狂言という、なかなか長いお話の中でございます。
部分的に上演されることはたびたびあったようでございますが、本当にひさびさ、久方ぶりの上演ということで、皆様にお話をお聞きいただいて、興味を持っていただければありがたいなと思います。
金原亭馬生 先生、この「塩原多助」は実在の人物なんですよね?
高野実貴雄 ええ、そうですね。多助の「た」は「太」という字で書きまして。それを円朝自身が「多助」、世の中を多く助けるという意味で…
馬生 字を変えた。これやっぱり、円朝師匠が「こういう人物がいたんだ」ということを耳にして、一代記としてまとめたわけですね。
桂平治さん 春風亭一之輔さん

一龍斎貞友さん金原亭馬生さん高野実貴雄さん

高野 そうですね。明治9年に聞いて、上州まで旅をしまして。円朝は伊香保には何回も行ってるんですね。ですからもう、上州は第二の故郷みたいな感じで。
馬生 温泉。
高野 そう、温泉が若い頃から好きで、伊香保には何度も何度も行ってまして。それで、塩原家のことを聞きまして。塩原家にまつわる怪談を聞き、よく調べてみると、初代が才覚で炭商として成功したということで。明治の世の中に合っているということで…
馬生 たしか明治の教科書に「塩原多助」が載ってるんですよね?
高野 明治25年の3月ですね。
馬生 ですから、明治の教育を受けた方は、みなさん「塩原多助」のことは知っていらっしゃる…
貞友 今日のお客様の中にはいらっしゃらないと…ねえ…
馬生 みなさん戦後の方ですから。
昔の方は、この「塩原多助」と「二宮金次郎」は教科書に載ってたんですよね。ですから、ようくご存知だったんでしょうね。
高野 明治25年の教科書に載ってまして、小学校2年生で勉強したみたいですね。
貞友 そうすると、多助が養子先にもらわれていったのと同じ年ということになりますね。
高野 そうですね。
馬生 七つ、八つですからね。
やはり、明治の時代のニーズに合っていたんでしょうね。塩原太助という人が勤勉で、財をなして、社会に還元したという。「塩原橋」って、いまだに本所深川に残ってますよね。
道普請をして、道も作ったわけですよね。
高野 四ツ谷の、霜で道がぬかるんじゃって、わらじが…
馬生 ぐずぐずになってしまう。
高野 そうそう。自分だけならいいけれど、いろんなわらじの人がいっぱい通りますから、天下の道だということで、自分でお金を出して…
馬生 私財をね、投げうって。そういうところがやっぱり、教育にちょうど良かったんでしょうね。
貞友 自分のことだけでなく、社会の皆さまにお戻しする心意気っていうかね。
馬生 それで、円朝師匠のお作りになる噺といったら長いのが多いんですけれども、「塩原多助」は中でも長いほうですよね。
高野 当時の寄席は15回ですから、基本的に15回で納めるんです。
馬生 じゃあ、15日かけてひとつの話を。今日はここまで、この続きはまた明日…みたいな感じで。
高野 円朝の場合は5回というのもあるんですけれど、「塩原多助」、これは18回になってるんです。
馬生
金原亭馬生さん 金原亭馬生さん
じゃあ、1日3、40分やって15回。次はお楽しみということで。
高野 すぐ始めちゃうとわかりませんので、それまでの復習を最初の5分くらいでやって。
馬生 昔の紙芝居みたいなものですね。この続きは明日って。
貞友 いいところで終わっといてね。
高野 大正の大震災以降、寄席がふるわなくなって、15回じゃ長いということで今と同じ10回になったんですね。
馬生 円朝という方は、どういった人物だったんでしょう?
高野 要するに真面目な方ですね。お弟子さんから慕われて、お金がないと渡してやったり。弟子が多くて100人以上いるわけですから、それだけ人望があったということですよね。
馬生 それからブレーンというか、円朝師匠の周りには素晴らしい方がたくさんいらして…
高野 山岡鉄舟とか、高橋泥舟とか。
馬生 で、ヨーロッパのものなんかいち早く翻訳する人がいて、それをいち早く落語にすると。モーパッサンの『親殺し』という小説が明治に出てきて、それをすぐ翻訳する人がいて、それをすぐ落語にしちゃうという。すごいですよね。
貞友
進取の気性というか、新しいものは何でもどんどん取り入れていこうという、前向きな…というとすごく短絡的ですが、そういう斬新なお考えもあったということですよね。
一龍斎貞友さん 一龍斎貞友さん
馬生 「死神」っていう噺もね、あれ、もともとイタリアの戯曲でしょ。それが明治の頃に入ってきて、その戯曲を元に落語を作っちゃうという。すごい才能ですよね。それも何百、何千という噺を作っていますから、寝る暇がなかったんじゃないかと。 それで、円朝師匠が「塩原多助」をお作りになったのは結構若い頃ですかね?
高野 最終的には明治18年の1月から3月までですけれど、よく言われているのは明治9年から11年ですから38歳とか、それくらい…
貞友 じゃあ、ちょうど脂ののってる時期ですね。
馬生 若い頃は新七と言っていた黙阿弥と競って、いろんなものを作ったというね。五代目菊五郎が円朝作品をよく芝居にしたという。片っぽう、黙阿弥は若い頃、落語を作っていたんですよね。互いに競いながら、落語と芝居の作者であったわけですよね。ですから大変な能力のある方ですね。
ご自分でも、実際に高座で芝居噺みたいなのはやっていたわけですかね?
高野 若い頃は道具入り、鳴り物入りっていう、要するに道具が入って、あと鳴物。鳴物っていうと打楽器と笛ですよね。
馬生 あと三味線もね。
高野 三味線は最初、入ってなかったと思うんですね。途中から入れたと思います、たぶん。そういう記事があるんですよ。鳴り物と長唄を7人連れて、寄席を回った記事がありますので。
とにかく新機軸を出して自分を売らないといけなかったので、その過程で、人とは違ったものをやると。それは三遊亭円朝の何かこう…
貞友 新しい試みを取り入れながら開拓していくということだったのかもしれませんね。
高野
高野実貴雄さん 高野実貴雄さん
素噺だと他にもうまい人がいるので。自己主張するために道具に鳴物、そういうものを積極的に取り入れていったと思うんですよね。
貞友 そう考えますと、この「塩原多助」のオリジナリティ――新しいものや、いろいろな創意工夫みたいなものと、円朝自身の生き様とがかぶってくるところがありますね。
馬生 そうでしょうね。
それから、明治になって新聞がだんだん普及してきた時にね、落語と講談を速記にして連載したんですよね。昔の噺家は文字では残してないんですよね。ですから、高座でしゃべったものを、速記者が速記して「速記本」として出したんですよ。講談の「速記本」で儲けたのが講談社ですよね。ホントなんですよ、これ。落語社っていうのはないんですけれど(笑)。講談社は講談のお蔭で大きくなったんですよね。
貞友 『講談全集』なんか、ホントに。
馬生 新聞は読者層を広げるために落語と講談を連載して。当時ね、庶民の方が政治だとか、そんなのわかんないですよ。連載の落語、講談を目当てにその新聞を取るようになった。ですから、いま新聞が普及しているのは落語、講談のお蔭なんですよ。ホントですよ。
円朝師匠がいっぱい連載をしてるんですよね。時事新報社とか、当時の新聞に書きましてですね。で、「速記本」の第1号は円朝師匠の『牡丹燈籠』。明治17年に、速記者が寄席に来ちゃ速記したのを文字に起こして。
ところがこの当時、円朝師匠のしゃべるギャラと速記者のギャラが一緒だったんですね。で、速記者は必ず二人くるから、たとえば今のお金に直して10万円もらうとすると、33,333円ずつ分けなきゃいけない。それくらい速記のお値段が高かったんですね。
高野 ええ。要するに速記する人が少なかったんですね。需要があるということで、それで結局、速記者とギャラは同じだったんです。もしくは高かったんですよ
馬生 それでやんなっちゃうんですね。
いまは録音で何でもできますけれど、昔は録音の機械がないから、みんな速記者が。だから『円朝全集』なんか、場所場所によってズレが出てくるんです。それは、速記者が間違えて書いちゃったっていうのも多分にあると思いますね。途中でね、辻褄が合わなくなる時があるんですよ、長いお話の中でね。
貞友 でも、そういう速記者の方がいらしたから、現代にまで残ってるんですよね。
馬生 そうですね。当時はね、機械がないわけですから。
貞友 昔の新聞は紙の質も悪いじゃないですか。ですからもうホントに、広げるのも震えながらやらないと。消えてるところも多いですしね。いわゆる昔のわら半紙みたいなものでね。
そういう方がいらっしゃったからこそ、現代にも受け継がれているというですね。
馬生 こんど、三津五郎先生と橋之助先生でおやりになる。これはひさしぶりで。
落語、講談から、ずいぶんお芝居に行ってるものが多うございますね。「髪結新三」、もとは「白子屋政談」という講釈ですよね。それを歌舞伎に直したわけですね。円朝作でいうと「牡丹燈籠」だとか「累ヶ淵」とか「乳房榎」、「文七元結」、「芝浜」。これみんな円朝師匠がお作りになったんですよね。
貞友 落語のネタでも大ネタばかり。すごいですね。
馬生
それから「お富与三郎」。これは初代志ん生師匠が寄席でやったものを、三代目瀬川如皐がお芝居に仕立てたんです。われわれ、よく鹿芝居でやりますが、「いやあ落語家さん、うまくお芝居の真似しますねえ」なんて言われてね。「いや、こっちが元なんです」っていうことを申し上げたいんですけれど、遠慮して「ありがとうございます」って言ってるわけなんですけれども。
「塩原多助」はちょこちょこ、いままで抜き読みでやったことはあるんですけれどね。こんど全生庵(東京都台東区谷中の寺院)のご住職様に「やってみたらどうですか」って言われて、去年、やること決めたんです。そうしたら、あとからお芝居が(笑)。私の方が先に名乗りを上げたんですけれどね。
これ、発端からずーっと、お終いまでやろうと思っているんですよね。4回に分けて1時間ずつですから、4時間でなんとかまとめたいなと思っているんですけれどね。
金原亭馬生さん 金原亭馬生さん
貞友 聴きごたえのある会になりそうですね。楽しみでございます。きっかけというのはどういうことなのでございますか?
馬生 ずっと全生庵で円朝物をやってきましてね。「業平文治」っていう実在の人物で侠客ですが、それを去年までずっとやりまして。で、その前が「名人長ニ」、先程申しましたモーパッサンの『親殺し』という小説を元に円朝が作った、これも見事な噺ですが、そういう風に円朝物をずっとやらしていただいた…
貞友 そういうことがまず最初のきっかけで、「多助」も…ということでなさってらしたんですね。
あの、志ん生師匠なんかも「青の別れ」は有名でございますけれども…
馬生 戦後、「塩原多助」を手がけたのは、志ん生師匠だけじゃないですかね。
高野 あと、今輔師匠。
馬生 ああ、今輔師匠だ。
高野 今輔師匠が、群馬県出身だから…
馬生 思いがあったんでしょうね。今輔師匠も円朝物をよくやっていらしたんですね。
高野 始まる前に「これ100年前の群馬の言葉です」みたいなことを言って、「がんす」っていうね、「やす」とか、そのへん巧みですよね。もともと群馬ですから。方言を直せなくて。
貞友 逆に、その方言が生かせるお話が「塩原多助」だったということですね。落語ですと、わりと地方の方もいらしてなまる場合も多いんですけれど、講釈の場合はだいたい、主人公だけはどんな地方の方でも「べらんめぇ」の江戸弁なんですね。
馬生 そうなんですか。
貞友 唯一そうじゃないのが「塩原多助」。唯一…もうひとつあるのが、皆さんあんまりやられないんですけれど「善悪双葉の松」っていうのの主人公だけなんです。私、知らない頃に「そやねん、こうやって行ってみたけどな」ってやってたら、うちの師匠が「何言ってるんだい、そんな変な言葉使うんじゃねぇよ」って。主人公は絶対標準語、まして、江戸弁という風に…
馬生 決まりが…
貞友 はい。どの土地でも講釈はそう…って。で、それを唯一裏切っているのは「塩原多助」で。
馬生 貞友さんは師匠の貞水先生から、この「塩原多助」はお習いになったんですか?
貞友 講釈ではあんまり、なさる方がいらっしゃらないんですね。
で、ちょっとエコの話をしなければならない時、講演で頼まれた時に。何でしょうね、バブリーな時期が終わった時に、もう一回ちょっと原点回帰みたいなところで…
馬生 物を無駄にしないとか…
貞友
そうなんです。「じゃあ、『多助』がいいんじゃないの」っていうことで。勉強してみればって、やらせていただきました。
一龍斎貞友さん 一龍斎貞友さん
馬生 「勿体ない」っていう精神ですね。
貞友 ぜいたくが身に染みちゃってると、何かしみったれみたいな…。そこらへんの区別が「多助」の大事なところじゃないかな。
馬生 しみったれと倹約とは、また違うんでしょうね。
あの、炭団(たどん)なんかね。炭の切った粉をほうきで集めておいて、粘着の海藻か何か入れて、丸めて乾かして使ったっていう炭団はあれ、塩原太助が発明したっていう話ですよね。昔は、喜助だと「キィどん」とかね、与一だと「ヨーどん」とか、だから、太助だから「ターどん」って言ってたんです。ターどん、たーどん、たどんになっちゃったっていう(笑)。これはホントの話です。
貞友 そうなんです。これホントの話なんです。
馬生 これは今輔師匠がよくおっしゃっていましたね。
この中で、炭団っていうのをまったく見たことがないという方…、いるんだ。ちょっと歳ごまかして、見栄張ってるんじゃないの(笑)。ホントに炭団見たことがない? 使ったことがない? 使ったことのある方…、やっぱりいらっしゃるよ。
貞友 そういう意味では、今回、昭和5年以来の通し狂言として大劇場で上演されるわけですけれど、なかなか噺家さんでも…
馬生 なかなか普通の寄席ではやりませんですよ。「塩原多助」やってたらね、みんなあくびして帰っちゃうんじゃないかと。長いし、それほど面白いっていう噺ではないですからね。人情噺ですから。
貞友 噺家さんでも、私、馬生師匠がなさるのは存じ上げていたんですけれど、他の噺家さんがなさるのをあまりうかがったことがないな…と。
馬生 円朝物をやる方はいらっしゃいますがね。「塩原多助」はあんまりやる方が。
貞友 ついつい、継子いじめのイメージがあってなのかな…と私なんか思うんですけれど、いかがでしょうか?
馬生 いまはね、お子さんがご結婚なさる時に両親が揃ってるっていうのは、案外当たり前じゃないですか。ところがね、以前はね、子どもが一人前になる時に両親が揃ってるなんてのは稀なんですよね。寿命も短いし、両親が揃ってるなんてのはまずない。どっちかが、たいがい男が先に逝くんです。だいたい40歳くらいでね。多助もね、育つあいだにそういうことがあるのが当たり前。
貞友 養い親のところにきても、お母さんが亡くなられますからね。 では、「多助」の魅力について、まず高野先生に。
高野 三津五郎って、同学年なんですね。そういう意味でちょっと期待してるというかね。勇気づけられるんですよね、活躍していると。それを糧にして生きてきた部分もありますので、ぜひ頑張っていただきたい。
貞友 三津五郎先生が多助をどういう風に表現なさるか、大変興味深いですよね。粋な多助になるんじゃないかと。
馬生 おとついね、三津五郎家元から私の携帯に電話があって。「道連れの小平」って、五代目も六代目もやってないところをね、ご自分で「ここを入れなきゃだめだ」ってことで、こんど入れるんだそうです。まあ、あの方はホントに何やってもうまい方で、いろんな役をこなすことができますよ。
歌舞伎の方はすごいですね。何年か前に、海老蔵さんの襲名の時かな、団十郎さんが弁慶やってて、途中で病気になって急に休んだ。そしたらあくる日、三津五郎さんがやってるの。何でもできるんですね、あの方々は。すごいなと思って。
このあいだ電話で話した時、「1時間半、ひとりでずーっとセリフを言うんですよ、松尾芭蕉の」って。それはすごいですねって言ったら、「いやあ、噺家の方がすごいよ」って。「いろんな噺、30分でも1時間でも、何百という噺が出来るんだから。俺、これ1時間半覚えるのにね、ずいぶん苦労したよって」って、それくらい。
だから、いい芝居がきっとできると思いますね。
貞友 私も今日ここに呼んでいただいて、つくづく「塩原多助」を覚えておいてよかったなあ…と、しみじみ思った次第でございます。いま、多助みたいな人物というのはなかなか現代では生きにくいというか、存在してくれないと思いますけれども、日本人の良さというか…
高野 これから、見直されると思いますよ。
貞友 そうであってほしいなと思いますけれども。そういう意味では今回、大劇場で公演があって、その前に皆さんにこうやって、人となりみたいなものを知っていただけて良かったなと。私も、聞いていてだいぶ勉強になりましたので。これからもやっていきたいと思います。
馬生 筋立ての都合で、今日は私が前の部分「道連れ小平」を、貞友さんが後の部分「晴れ姿 夫婦塩原」をつとめます。お終いまで、よろしくお願いいたします。

金原亭馬生さん、一龍斎貞友さん、高野実貴雄さんのお話により、塩原多助の人となりに親しみを持っていただいた後、馬生さんの落語「道連れ小平」と貞友さんの講談「晴れ姿 夫婦塩原」をたっぷりとお楽しみいただきました。情趣あふれる馬生さんとめりはりの効いた貞友さん、お二人の多助に、会場は涙あり笑いありのわくわく感でいっぱいになりました。

金原亭馬生さんの落語「道連れ小平」
金原亭馬生さんの落語「道連れ小平」
一龍斎貞友さんの講談「晴れ姿 夫婦塩原」
一龍斎貞友さんの講談「晴れ姿 夫婦塩原」

三遊亭円朝原作の歌舞伎「通し狂言塩原多助一代記」は、10月27日(土)まで国立劇場大劇場にて上演中です。こちらもぜひお見逃しなく。

あぜくら会では今後もこのような会員限定イベントを企画してまいります。
皆さまのご参加をお待ちしております。