文楽かんげき日誌

寿式三番叟と増補大江山

中沢 けい

東日本大震災から二年が過ぎた。そう書き出しても、箱根より西ではどんな感じがするのか、東京に住まいのある私には解らない。震災直後は新幹線で新大阪の駅に降りると、ほっとすると同時に、なんだか別世界に迷い込んだような気がしたものだ。そこでは人が当たり前に冗談を言いながらビールを飲んでいた。東京の固くこわばった空気の中から、大阪のなんでもないゆるやかな空気の中への移動がなんとも腑に落ちないものだった。

震災の話から始めたのは、震災の翌年、つまり2012年のお正月は、どことなく「あけましておめでとう」と新年の祝詞を言うのさえためらわれる空気が東京にはあったからだ。阪神大震災の翌年の大阪はどんな雰囲気だったのだろうと、今さらながらに、ちょっとそんなことも思う。2013年を迎えてようやく「おめでとう」を言うにも、ためらいがなくなった。

お正月らしさというものはずいぶん薄らいだと言われるけれども、新年の祝詞もためらわれるようなお正月を潜ってみると、やっぱりお正月らしさはありがたい。そこには一区切りのついた新鮮な時間がある。この新年は、東京でも日生劇場、明治座と劇場を回ったけれども、お正月らしいのは大阪の国立文楽劇場の『寿式三番叟』『義経千本桜』『増補大江山』という演目が並んだ舞台だった。客席に和服姿の人の姿が目立ったのも国立文楽劇場だった。

演目のうち『義経千本桜』はまだ筋がよく呑み込めてない私にはやや高級で、『寿式三番叟』と『増補大江山』はお正月の夢として瞼の裏に残った。

三番叟というのはバリエーションが多く、歌舞伎でも見たことがあるのだが、人形だといやに無邪気な感じがする。子どもの頃に見た人形劇を見るようなつもりで、人形の踊りを見ていると、だんだんとリズムが速くなる。踊る一対の人形もそのリズムについて行く。リズムが速くなるにしたがって、人形の動きが滑らかになり、人形は人形でなくなる。そしてとうとう一人が踊りを止め、サボり出す。するともう一人が「ちゃんと踊れ」と踊りに誘う。もう息も絶えだえだというのを、無理やり踊りへと引きずり込む。こんなくだりはなんだか漫才のやりとりを見ているようで、楽しい。ようやく立ち上がり、踊りだしてみると、へんに勢いがつき、わき目もふらずに、無我夢中でリズムに乗ると、わきで踊りに誘い込んだほうが、踊りは相方にまかせ、のうのうとサボりを決め込むというのも「ああ、これが難波の春だ」という感じがしたものだ。

大江山の酒呑童子を退治した源頼光の家来で四天王に数えられる渡辺綱という人は、中之島の大江橋あたりを総べる一族の出だと聞いたことがある。『増補大江山』は渡辺綱が若い女に化けた鬼を退治する話で、これも大阪の人には、京から淀を抜けて大阪へと流れる川の懐かしさを覚えさせる演目なのかもしれない。

ぽっかりと輝く月、夜道をひとり歩く女。これだけでも、なんだか奇妙なことなのに、ふっくらした白い女の顔が時折、牙を向く。この女は鬼だと、こんなに簡単に解っていいものかしらと、まるで「私は鬼よ」と言っているような女と渡辺綱が和やかなやり取りをする。はて、どこかでこんな場面見たような。そんな気がして道頓堀に写る赤い火青い火を思い出したりする。『大江山』は古典であるけど、大阪を流れる川の水の匂いがする。京都、大阪を行き交う人の気配がする。

そうこうするうちに、女がちらちら覗かせた鬼の顔はまだ序の口であったと、般若の顔に変わり、鱗がびっしりと輝く。人形でこんな早変わりができるのかと驚くと、正体を現した鬼はあっという間に空中へ。人形を操る人形遣いさんが神々しく見えた。祝詞も言えないようなお正月のあとで、ようやくお年玉をもらえたような気分になった。まことにけっこうな気分を味わわせてもらった。

■中沢 けい(なかざわ けい)
作家。法政大学教授も務める。1959年生まれ。高校在学中に書いた「海を感じる時」で群像新人文学賞を受賞。1985年『水平線上にて』で野間文芸新人賞受賞。著書に『野ぶどうを摘む』『女ともだち』『豆畑の昼』『さくらささくれ』『楽隊のうさぎ』『うさぎとトランペット』など。千葉県出身。

(2013年1月19日『寿式三番叟』『義経千本桜』『増補大江山』観劇)