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国立文楽劇場

おかるの船玉様

中沢 けい

「忠臣蔵」と言うのは、歌舞伎や文楽の実際の舞台を見たこともない人でも、よく知っているような気がする話だ。赤穂浪士四十七士の討ち入りの話というぐらいのことは、誰でも知っている。武士の忠義を描いた物語と言うことも常識のうちに数えられる。討ち入りを志す赤穂藩家老の大石内蔵助、いや、芝居では大星由良助だが、その人が本心を隠すために祇園の一力茶屋で遊んだことも有名だ。

よく知っている物語を見るつもりで、初めて文楽の『仮名手本忠臣蔵』を見た。やっぱり文楽でも忠臣蔵はよく知っているお話であった。よく知っている忠臣蔵の輪郭を、太い線でぐぐっと明瞭に引かれたような感じがしたのが文楽の忠臣蔵だった。ぐぐっと明瞭な線を引かれてみると、歌舞伎の舞台を見ていた時になんだか得心が行かなかったことも「そうであったか」と手を打ちたくなるような得心があった。で、そうと解って来ると、次には、歌舞伎の忠臣蔵よりも文楽の忠臣蔵のほうが、義理より人情が濃いものになっているのに目を見張る思いがした。歌舞伎では義理は立っても人情の点でもうひとつ納得がいかなかったものが、文楽になると人情の物語になっている。武士の忠義の物語であるはずなのに、生な人情が動いているから、どこか柔らかい。その柔らかさは登場人物の性格にも響く。大星由良助の性格も、歌舞伎と文楽ではだいぶ違うように感じられた。

大星由良助の性格が歌舞伎のそれと文楽では、しごく違って見えたと言う話に知人と興じている時に、調子に乗って「文楽の大星由良助は、女の人をからかったり冗談を言いかけたりする人物なの」と言って祇園一力茶屋の段で、おかるが二階から梯子を降りる場面での由良助の台詞を、うろ覚えで引き合いに出してしまった。二階からおかるが梯子を降りようをする。すると下から由良助が、腰巻の内側が見えるぞというような意味のことを言って、おかるをからかう。そんな場面が歌舞伎にあっただろうか。あったとしても、あまり記憶に残っていないのだが、初めて見た文楽では、そこが強烈に記憶に残ってしまった。軽妙洒脱な由良助である。一歩間違えれば、だたのスケベ爺になりかねない由良助だ。と、その場では調子に乗ったものの、あとからあの場面の由良助の台詞はいったいどんな台詞だったのかが、ひどく気になり床本集を開いてみた。

次のような台詞だった。

「道理で、船玉様が見える」

不安定な梯子を降りるのは、船に乗ったようで怖いというおかるに、由良助が下から答えるのだった。おかるは「エヽ覗かんすないな」と由良助を嗜める。

船玉様が、なぜ腰巻の内側を意味するかは、少し説明がいるかもしれない。船玉様は船に祭られた神のことで、民俗を展示する博物館などには、近年の紙人形の船玉様が展示されていたりする。四角い箱にかわいらしい紙雛が入っている。今でも漁の出る船には、こうした船を守る船玉様を祀る習慣があることが書き添えられていたりもする。

紙雛を祀るのはいつ頃からの習慣なのだろう。それ以前と言っていいのかどうか、私には解らないが、私の知っている船玉様は絶対見てはならないものだった。なぜなら、その四角い箱には、白い紙に包まれた女性の陰毛が入っていたから。聞くところによると、その陰毛は船の主の妻のものであったり、姉妹のものであったりしたそうだ。親しい女性からそれを貰い受け、船の守りとすると、どんな大時化に出会っても、艱難辛苦を乗り越え生還することができるのだと言う。

「船玉様が見える」で、腰巻のうちがなまなましく浮かんだのも、知識があったからだと言われてしまえばそれまでだけれども、どうもそればかりとは思えない。舞台を眺め、語りを聞きながら、おかるの裾の内側のなまめかしい肌の温かみが目に浮かび、そこに居合わせたような気持になったために、由良助その人の性格の現れとして脳裏に焼き付いてしまったのだ。

義理の底に太く流れる人情を、濃く描き出した文楽の忠臣蔵であった。それはどこかひと肌の温かさに似たものを持っていた。

■中沢 けい(なかざわ けい)
作家。法政大学教授も務める。1959年生まれ。高校在学中に書いた「海を感じる時」で群像新人文学賞を受賞。1985年『水平線上にて』で野間文芸新人賞受賞。著書に『野ぶどうを摘む』『女ともだち』『豆畑の昼』『さくらささくれ』『楽隊のうさぎ』『うさぎとトランペット』など。千葉県出身。

(2012年11月16日『仮名手本忠臣蔵』(七段目~大詰)、11月22日(大序~六段目)観劇)