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国立文楽劇場

河原と近松

黒澤はゆま

古来、河原は境であり、この世とあの世のあわいにある場所だった。

『曾根崎心中』の感想を、こんな文章からはじめる気になったのは、観劇のあと家に帰ってから見たブラタモリのせいかもしれない。ちょうど文楽を見た日(4月15日)に、京都の祇園を紹介していて、私はそれを録画していたのだ。

初めて見た『曾根崎心中』の感動と、帰りにホルモン屋で一杯ひっかけた酒の余韻で、私の頭もこの世とあの世のあわいにぼんやり浮かんでいるようだったが、画面に「寛文新堤」というテロップが浮かび、それが作られた年が1670年と紹介された時、私の目はテレビにくぎ付けになった。

ブラタモリによれば、鴨川の両岸に築かれた「寛文新堤」によって、洪水は減り、それまで住めなかった岸辺に市街地ができていったという。そのために、四条通りの北側に花街が急速に発展していったということだったが、私が注目したのは年代だった。1670年。実は、1670年代の京都、しかも四条河原周辺というのは、文楽ファンにとって、ビートルズファンの1950年代のリバプールのような場所なのだ。

それは、宇治加賀掾、竹本義太夫、そして近松門左衛門という近世浄瑠璃を切り開くことになるビッグスリーが、歴史に姿を現しだすのが、この年代、この場所だからだ。

1675年、宇治加賀掾は、京都四条河原に操芝居の櫓を建て、宇治座を興す。翌々年、すでに大坂で盛名があった清水五郎兵衛(後の竹本義太夫)が上洛、加賀掾に弟子入り、ワキをつとめて大評判となる。近松門左衛門も、1679年、彼の存疑作とされる『他力本願記』が残っている。

ブラタモリがきっかけになって頭に浮かんだ想念だが、「寛文新堤」によって、四条河原周辺が整備されたのと、軌を一にして近世浄瑠璃を興すヒーローたちが歴史の表舞台にあらわれだしたのは偶然だろうか? 恐らくそうではあるまい。

私達は、綺麗に護岸された川岸しか知らないから、忘れているが、古来、河原というのは、常世とは違う、恐ろしい場所だった。

『河原にできた中世の町』(網野善彦文、司修絵、岩波書店)という、古代から現代にかけての河原の景色の変遷を、美しい文章と絵で描いた、素晴らしい絵本がある。

そこに登場するのは、死者、巫呪、処刑人といった、秩序の外の所で生きる、化外の人たちだった。彼らは、司修さんの素晴らしい絵の迫力もあって、異形の半神に見えた。

そして、こうした半神たちのなかには、近松達の祖先、芸能民たちの姿もあったのである。南北朝時代には、河原に舞台が立てられ、田楽の舞が披露された。後の芝居小屋の雛型だ。

死、祈り、呪い、処刑、芸能、こうした普通とは違う、日常から離れた営みが河原で行われてきたのは、冒頭に書いたように河原があの世とこの世の境の場所と考えられていたからだ。

こうした風景は江戸の世になっても、そう変わるものではなかっただろう。

少年の頃、近松が今より一回り長い四条大橋から、見下ろした河原の景色は、古代・中世の混沌とエネルギーに充溢した場所だったに違いない。

しかし、江戸は、そうした無秩序を許す時代ではなかった。

平安時代には、御土居から大和大路の近くまであったという河原は、「寛文新堤」によって狭められ、みみっちく矮小なものになった。そして、かつて河原だった場所に芝居町が出来た。

近松達が頭角を表すのは、この町でのことだった。もし、「寛文新堤」が出来ず、河原が河原のまま置き捨てられていたら、近松たちの芸も随分違ったものになったであろう。それどころか、芸能人としての近松は現れず、平凡な公家侍として人生を終えたかもしれない。

河原は神仏の力がダイレクトに及ぶ場所でもある。だから、そこで行われる芸能は、まず神に捧げられるべきものだった。

しかし、『曾根崎心中』には一切、神の声は聞こえてこない。

聞こえるのは、九平次の悪意にせよ、徳兵衛の無念にせよ、お初の嘆きにせよ、人の声ばかりである。

人間同士の葛藤を描いたこのドラマは河原には似つかわしくない。芝居町にこそふさわしいものである。

芸の行われる場の移り変わりによって、近松と『曾根崎心中』は生まれたのではなかろうか。

しかし、かといって、近松に少年の頃に見た、無秩序な活気に満ちた「河原」への郷愁がなかったというわけではないだろう。

ラスト、死に向かって突き進む、お初と徳兵衛は小さな「梅田の橋」を渡って、終焉の地となる曽根崎の森へ向かう。

この世からあの世へいくためには、やはり川を渡り、そのほとり、「河原」へ行かなくてはならなかったのである。

そして、何よりあまりに有名なあの道行。

「この世の名残、夜も名残。死にに行く身を譬ふれば仇しが原の道の霜。一足づつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ
あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め
寂滅為楽と響くなり
鐘ばかりかは、草も木も空も名残と見上ぐれば、雲心なき水の面、北斗は冴えて影うつる星の妹背の天の河。梅田の橋を鵲の橋と契りていつまでも、我とそなたは女夫星」

このあまりに美しい奇跡のような言葉の連なりは神韻に満ちている。

近世的な芝居町の勃興期に、必然として生まれた近松門左衛門と、その素晴らしい作品の数々。

しかし、その古層には混沌としていながら、無秩序な活気に満ち、そして何より神々の声を聞く場所だった「河原」の景色が眠っていたと思うのである。

■黒澤はゆま(くろさわはゆま)
作家。1979年生まれ。宮崎県出身。九州大学経済学部経営学科卒業。九州奥地の谷間の村で、神話と民話、怪談を子守歌に育つ。小説教室『玄月の窟』での二年の修行の後、2013年『劉邦の宦官』でデビュー。大阪府在住。

(2017年4月15日第二部『楠昔噺』『曾根崎心中』観劇)

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