文楽かんげき日誌

大阪で京、近江の景色を見る

中沢 けい

大阪の夏は暑い。天王寺あたりでしゃわしゃわと鳴くクマゼミの声を聞き驚嘆した。江戸の八百八町に対して大阪は八百八橋と言う。京橋、天満橋、天神橋に大江橋と淀屋橋、道頓堀にかかるのは日本橋、相生橋、戎橋と地名や駅名にもなっている橋の名前が浮かぶ。淀川の扇状地に切開かれた掘や川の多くが今では暗渠に姿を変えているけれども、夏のむっとする暑さの中には、町なかを流れる川から昇る湿気が隠れているかのようだ。だから「源平布引滝」の太夫さん、三味線さん、人形遣いさんそろって白の紋付という姿が目にも珍しく暑気を払う清々しさが心地よかった。白着付というそうだ。柔らかな白絹に裃の色が鮮やかに映える。聞けば、猛暑の頃の装いとのことだった。

人形の芝居を見るか、浄瑠璃を聞くか、その浄瑠璃の古典語を耳だけで聞き取れないので、字幕を読むので、ますますどこに集中していいのか分からなくなってしまうと、知人が文楽のあとで言っていたけれども、どうも私は、そのほかに太夫さんや三味線さんそれに人形遣いさんの衣裳をへぇと感心したり、舞台の背景に描き出される景色に感嘆したりしているものだから、肝心のお芝居はお留守になっているということがしばしばある。あっちをきょろきょろこっちをきょろきょろの困った観客だ。

昨年の文楽劇場の夏休み公演で、井上ひさし作の「金壺親父恋達引」で新作を見て以来、夏休みの出し物が待ち遠しくなっていた。今年も「金太郎の大ぐも退治」と木下順二の「赤い陣羽織」を見るか、それとも高津宮あたりが描かれる「夏祭浪花鑑」を見ようかと思案しているうちに、ふっと近江の琵琶湖湖畔が舞台になる「源平布引滝」が見たくなった。かれこれ、七、八年ほど毎週、大阪へ通う用事があって、大阪の町なかを流れる川を遡れば、淀、伏見から京の都にたどり着き、その川筋は琵琶湖から流れ出すということが、関東者の私にも漸く感覚的に分かってきたところだ。舞台に景色を見るのも文楽の楽しみ。

「水上は流れも清き白河の美麗を好む一構へ」と始まる「義賢館の段」。義賢は木曾義仲の父。平治の乱の後、木曾先生義賢は病気を理由に白河の屋敷に閉じこもっている。義賢の妻、葵御前は懐妊中で、これが後の木曾義仲となる。と、「平家物語」「源平盛衰記」に題材をとったこの物語の筋を書きながら、なんとも血なまぐさい芝居だったのを思い出す。「平家物語」は無常を語る物語とされるけれども、読んでみるとまことに血まなぐさい武士の物語だ。文楽の舞台ではそれがもっと血なまぐさいドラマとして展開する。

懐妊中の継母、葵御前と義賢娘の待宵姫が語り合っているところに現れるのが、近江から出てきた九郎助、その娘の小まんと孫太郎吉の三人。九郎助はクロスケでいかにも在所のひとらしいあけすけな物言いの老人。「源氏物語」には近江君という滑稽を一手に引き受けるお姫様が出てくるけれども、都から見れば近江はほんとに田舎ということになるのだろう。七つになる子の手を引いた小まんは、登場の時は地味な存在だ。父親は義賢に使える折平。実は多田蔵人行綱。「義賢館の段」は、平家に襲われた義賢が討ち死、待宵姫は多田蔵人行綱と共に幽閉されている後白河法皇のもとへ逃れる。「親子が一世の別れ、命を捨つる役目をいひ付け、情けらしい詞もなく、叱りまくつて追ひ出だせし不憫や」と義賢の台詞がなんだか妙に身に染みる。不憫なんて言葉はしばらく耳にしていなかった。懐妊中の葵御前は九郎助と太郎吉に伴われ近江へと落ちのびる。騒動の発端となった源氏の白旗は小まんが預かることになる。

この小まんがめっぽう強い。「矢橋の段」で小まん自身が「草津石部の間では、百人にも千人にも勝つてまんと付けられて、人も知つた手荒い女」と名乗りを上げるだけあって、追手をぽいぽいと投げる。これが人形だから小気味良く宙に舞う。怪力無双の小まんであるが、そこは多勢に無勢、やがて追い詰めれ、湖へざんぶりと飛び込む。秋の月が朧にかすむ湖の景色が、平家の公達平宗盛を乗せた御座船が舞台全面に押し出されてくる。寂しい湖の景色が、奢れる平家と言われた豪奢な船でいっぱいになる。この船上から、今にも力尽きて溺れそうな小まんを助けるのが斎藤実盛。後に加賀の国篠原の合戦で髪を黒く染め錦の直垂姿で木曾義仲の家来手塚太郎光盛に討ち取られるのが斎藤実盛で、「源平布引滝」はなぜ実盛が若造りをして戦場に臨んだのかを解き明かす前日譚となっているそうだが、舞台を見ている限り、小まんが主役に見える。自分を助けたのは平家の公達の御座船と知り、源氏の白旗を守ろうとする小まんの腕を切り落とすのは実盛。やがて、白旗を握った小まんの腕は源五郎鮒をとりに出かけた九郎助、太郎吉のもとへ流れつく。

話がそう進む前に「暖かな雪が見たくば秋またござれ、畠は白妙雪かと見れば、小まん小よしが綿仕事、哥に諷うは近江路や」と「九郎助住家の段」の景色は琵琶湖の湖西に見える寂しくもあり、長閑でもある景色が広がって心地よかった。綿は戦国の終わり頃、渡来した植物で、源平合戦の時にはまだ暖かな雪と見間違うような畠はなかったなどということはどうでもよい。綿を作り、糸に紡ぎ、布の織り上げる仕事に余念がない小野原村の景色が感じられればよい。淀の流れを遡り、宇治川へ入ってまた遡った果ての景色がそこにある。浪花の賑わいからも都の豪奢からも遠く離れた湖西の世界だ。今の世でも時雨の降る寂しい日などは、湖西線で琵琶湖を北へと昇れば、文楽の舞台に再現されているような湖の岸の景色を見ることができる。大阪は旅人の町なのだと、この景色を見ながらそんなことをふと思った。川筋や街道を旅してきた人がひしめく大阪で、懐かしい景色を見たくて文楽の小屋へ足を運ぶ人もあったことだろう。「九郎住家の段」では小まんの遺骸が運び込まれ、片腕をつなぐと一瞬、息を吹き返す。その場面に至るまで、何度も小まんの口から「七つになる子」という台詞が繰りかえされるのが耳に残っている。七つと言えば今の世では小学校へ上がる年だ。幼児時代の終わり、少年の顔が見えてくる年頃で、親としてはほっと一息ついて安心できる頃合い。私にとっては懐かしい昔のことだが、「七つになる子」と聞くたびに、自分の子どもが小学校へ入った頃の若々しい心持ちが、胸の中によぎった。昔見た景色をそこに見るかのようだった。

小まんは九郎助夫婦の実の子ではなく、平家の追手の瀬尾十郎が捨てた子で、太郎吉は瀬尾十郎の孫にあたると明かされたあたりから物語はとんでもない展開になる。瀬尾十郎は孫の太郎吉に手柄をたてさせるため、自分の首に刀をあて、きりきりと首を引き切る。葵御前が太郎吉に源氏に仕える侍になるための手柄を望んだためだ。小まんの片腕を切り落とした縁から、太郎吉に手塚太郎光盛の名を与えた斎藤実盛は、将来をすっかり予見してひらりと馬にまたがる。それもこれも、小野原の里で綿を作りながら男の子をひとり育てた怪力無双の小まんの身の上から生まれた物語であると、そんな感じがした。実盛が馬で去る場面では電車の窓から見る湖西の景色が舞台の景色に重なっていた。竹生島に近づくにつれ美しい松林を電車の窓からも見ることができる湖西の道は北国へ抜ける道である。

■中沢 けい(なかざわ けい)
作家。法政大学教授も務める。1959年生まれ。高校在学中に書いた「海を感じる時」で群像新人文学賞を受賞。1985年『水平線上にて』で野間文芸新人賞受賞。著書に『野ぶどうを摘む』『女ともだち』『豆畑の昼』『さくらささくれ』『楽隊のうさぎ』『うさぎとトランペット』など。千葉県出身。

(2017年8月1日第二部『源平布引滝』観劇)