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国立文楽劇場

甘い甘い日本のお父さん達

黒澤はゆま

今年、初めてのかんげきとなった『染模様妹背門松』

ジャンル的には、これまで何度か見てきた心中ものに含まれるのだが、他の物とはちょっと肌合いの違う作品だった。

まず、心中ものと言えば、カップルの設定は、大抵商家の若旦那と廓の遊女と相場が決まっているのだが、この作品では丁稚育ちの若番頭とその家のお嬢さんだった。また、小知恵を弄して何かと邪魔立てしてくる、敵役の善六も同じ丁稚育ちの番頭だ。

作中、油屋では丁稚といえど、無下な扱いはせず家族同然に育ててきたことが示唆されている。そのため、カップルも恋敵も他人ではなく、子供のころからお互いのことを見知った準兄妹のような関係にある。

そして、この物語には二つの世代が出てくる。

久松とお染、そして敵役の善六などの子供の世代と、お染の父、太郎兵衛と、母おかつ、久松の父久作などの親の世代だ。お染の婚約者である山家屋清兵衛も、やや年下だが親の世代のなかに含めることが出来るかもしれない。

そして、『染模様妹背門松』の筋を端的に説明すると、破滅へと突き進む子供たちを、何とか親たちがとどめようとする物語と言えるのではなかろうか。しかし、不幸なボタンの掛け違えが起き、最後二人の子供は心中に至ってしまう。何故、こうなったのだろうかということを考えてみたいと思う。

まず親たちが不貞を働いた子供に対し、無理解だったかというと、まったくそんなことはない。それどころか、彼らは実に物分かりがいい親である。絶えず、理解と温情をもって二人に接している。驚くべきことに、婚約者を傷物にされた立場である清兵衛も、素知らぬ顔でお染をもらってやろうとし、二人が窮地に陥ったら助けてやっている。

この恵まれた立場は、例えば『曽根崎心中』の徳兵衛とお初と比較してみたら顕著なものになるだろう。

徳兵衛は叔父の不興を買って奉公先から勘当され、さらに兄弟と信じていた親友からの裏切りにより、詐欺師という汚名と莫大な借金を背負わされてしまう。彼らは冷たい無理解の壁に取り囲まれ、家族からも世間からも縁を絶たれ、否応なく死に追いやられるのだが、久松とお染の場合、別に家族からも世間からも見放されていない。

無論、不貞を働いたわけだから、怒られはする。質店の段では、息子の不倫を知った久作が里からやって来て、久松を叱りつける。

「非道なことして栄耀がしたいかい」

竹本千歳大夫師匠が大音声をあげ、吉田玉男師匠の人形が久松を折檻する、二人の名演技で表現された久作の怒りは大迫力だった。

ところがである。

中途から加わったお染の母おかつの説得もあり、「在所へ去んで女房持つ」ことに久松が同意すると、一転、久作は相好を崩し、息子を抱擁せんばかりに慰める。そして、

「サアサアもうえいもうえい、泣き止め、泣き止め。ぢぢかんでやろ。サつんとせい」

と、まだ若く未熟とはいえ、人の娘をはらますくらいのことはやってのける、息子の鼻を己が手ぬぐいでかんでやるのだ。

また、この物語に登場するもう一人の父親。お染の父も他愛なく娘に本音を見せる。

「心の内ではおりや、何にも叱つてゐやせぬぞよ。マア案じな案じな。われも時分の娘ぢやもの、惚れた者もあろ、それぢやててそれぢやて叱りやせぬ」

本作に登場する、親、特に父親はとにかく甘いのである。

私はかんげきの後、ヨーロッパのとある物語のことを思い出していた。

『マテオ・ファルコーネ』という短編小説である。

日本で初めてのユング心理学研究者となり、晩年には文化庁長官もつとめた河合隼雄さんが、父性とは何かを説明するとき、好んで紹介していたので、知っている方も多いだろう。カルメンの作者でもある、フランスのメリメの作品で、こんな筋書きだ。

舞台は、19世紀なかごろのフランス、コルシカ島。この島に住む羊飼いファルコーネの家に傷を負ったお尋ね者があらわれる。あいにくファルコーネもその妻も家畜の見回りのために出かけていて、留守を守るのは息子ただ一人だ。

おたずね者は息子に対し、かくまってくれと言う。初めは「お父さんに聞かなければ」と息子も抗っていたのだが、おたずね者の出す五フラン銀貨の誘惑に負け、結局は彼を干し草のなかに隠してやることにする。

ところが、親戚の憲兵がやってきて「犯人を教えてくれたら、この銀時計をあげるよ」と言われると、ただちに翻意し、干し草を指出して一度はかくまったおたずね者を売る。

ファルコーネとその妻が戻ってきたのは、捜査隊によって干し草から引きずり出されたおたずね者がまさに連行されようとしている時だった。おたずね者は驚くファルコーネに向かってこう言い捨てる。

「裏切り者の家!」

親戚の憲兵から事実を聞いたファルコーネは怒りくるう。彼は妻に向かって言う。

「おい、こいつは本当に俺の息子か」

そして息子から、銀時計を取り上げると、粉々にたたき壊し、村はずれの窪地へと連れて行く。

「お前は俺の血筋からはじめて出た裏切者だ」

泣き叫び、命乞いする息子の言葉に耳も貸さずファルコーネは引き金を引く。まだ、10歳の少年は冷たくなって窪地のなかに倒れ伏す。彼は三人の女の子のあと、ようやく得ることの出来た待望の一人息子だった。

家に帰ると、妻は大声で彼のことをとがめた。

「あなたあのこに何をしたの」

それに対して、ファルコーネはこう言い放つ。

「きちんと決まりをつけた。これから埋めてやる。あいつもキリスト教徒として死んだんだ。ミサをあげてもらうことにしよう」

河合隼雄さんは生前、この物語を引き合いに出しながら、父性の役割とは何かをよく語っておられた。それは、「切って絶つ」ことなのだと言う。

子供の全てを無条件で「よしよし」と受け入れるのが母性なら、父性は「いけないことはいけないこと」と社会のルールを突き付ける存在なのだということなのだろう。そして、子供がルールを破るような「悪いこと」をしたら、罰をくわえるのもその責務となる。

ファルコーネの物語はあまりに粗野、暴力的で、現代の価値観から言えば野蛮と言い捨ててよいものかもしれないが、それでもこの物語を読んで、現代日本の我々がある種の感動を得るのは、父親の普遍的な役割が何であるか端的に示しているからだろう。

人類の歴史が始まって以来ずっと、父親は外の世界から家族を守る盾であると同時に、外の世界から振り下ろされる刀でもあったのだ。

ファルコーネのみならず、世界は恐ろしい父親の話で満ちている。ギリシャ神話では、父クロノスが子供のゼウスを食べてしまったし、日本人の大好きな中国の英雄劉邦は自軍を生き延びさせるために走る馬車から息子と娘を蹴り落とした。『心臓を貫かれて』は世界への憎しみを募らせた、恐ろしい父親によって、息子たちが次々に破滅する様を描いたノンフィクションだ。

しかし、反面『アラバマ物語』のように、父親が子供にルールと生きるすべを教え、世界は矛盾と混乱に満ちていると同時に、喜びや楽しみ、ワクワクするような冒険の可能性だってあるのだと伝える、物語もたくさん存在するのである。

一方、日本はどうかというと、善悪どちらであれ、父性を前面に出した物語はとても少ないように思う。

いや、もちろん単なる父親の物語ならたくさんあるのだが、出てくるのは「急病の子供をおぶって深夜に病院を探しまわる」など、母性的な性格を持った父親像だ。それはそれで悪いことではないが、女性が本音のところで男に求めているのは違うんじゃなかろうか。

河合隼雄さんは、子供の成長に当たって父性と母性、両方をもってあたる必要性を常々語っておられた。また、表面だけ、物分かりのいい親がどれほど子供にとって危険かということも。

父親が甘い分、この物語のなかで父性をしょって立つのは母親だ。

お染の母、おかつは、策を弄して久松とお染の仲を裂き、お染を自分のものにしようとした、番頭善六に暇を申し渡しているし、久松に里に帰るよう久作に手紙で知らせ、説得を頼んだのも彼女だ。

本作のおかつの描写は、日本において父親が父性を持つ割合が少なかったため、気の毒にも母親が父性の肩代わりをしてやらなくてはならなかった消息を象徴しているものと思われる。

父太郎兵衛などは、お染に本音を打ち明ける場面で「内外の者や嬶が手前、子に甘いと言はれうかと思ひ、常住こわい顔をしてゐたけれどナ」とまで言っているのである。

しかし、片手間の父性で、断崖へと突き進む二人の子供を押しとどめることは出来なかった。

正直、本作を見て、久松とお染の二人の間に、徳兵衛とお初のような真実の恋情があったとは感じられない。年頃の男女がちょうど手頃な位置にいたものに、仮初の恋心を抱いたという、ただそれだけのことであったように思う。その点はお染の父親が「ひと筋な子供心で埒もないことやなどしてくれなよ」と見抜いた通りである。

大体、いい年して父親に鼻をかんでもらっている久松より、腕っぷしは強く、実際的能力に長けた、清兵衛の方がどう考えても婿にふさわしい。久作がファルコーネだったら、さっさと久松に対し「きちんと決まり」をつけたことだろう。

また、生玉の段で、久松とお染が自らの道行が芝居にかかっている夢を見たことも気にかかる。

『染模様妹背門松』は『曽根崎心中』から大体70年後くらいに封切られた劇である。その間、心中ものはたくさんかかっただろうから、久松もお染も劇を見て、思いつめた恋人は心中するものという固定観念があった可能性がある。ファッション化された心中へのあわい憧憬もあって、それに「ひと筋な子供心」で突っ込んでいってしまったのではなかろうか。

少なくとも、二人の死には、徳兵衛とお初の死のような必然性と重みがないように思う。

徳兵衛とお初は、この世に本当に二人ぼっちになった末に命を絶った。しかし、そのことによって彼らは逆説的に世間と家族からの独立に成功している。

世間も家族も、当時誰もが皆、厭わしく重苦しく思いながら、そのなかでしか生きていけないものだった。だからこそ、命と引き換えにそこから脱出し、「自由」を勝ち得た二人の姿に、観衆は喝采し涙を流したのだ。

一方、久松とお染にささげられた涙は、同じ涙でも、ただただ童子のように愛らしく、そして童子のように愚かなものの死への哀れ哀れの気持ちだ。

他の心中ものが世間や家族から確立してゆく自我を描いているのに対し、『染模様妹背門松』は親離れに失敗し、崩壊してゆく幼い自我を描いているように思う。

この物語のどこかのタイミングで、父親が強いノーを言っていれば、二人の死は防げたのではなかろうか。最近、親になった身として、あたらはかなくした若い命を、どうにも惜しまずにはいられないのである。

参考文献:『人の心はどこまでわかるか』(河合隼雄著、講談社)

■黒澤はゆま(くろさわはゆま)
作家。1979年生まれ。宮崎県出身。九州大学経済学部経営学科卒業。九州奥地の谷間の村で、神話と民話、怪談を子守歌に育つ。小説教室『玄月の窟』での二年の修行の後、2013年『劉邦の宦官』でデビュー。大阪府在住。

(2017年1月8日第二部『染模様妹背門松』観劇)