文楽かんげき日誌

奈良が舞台

チチ 松村

通し狂言「妹背山婦女庭訓」を観ました。この演目は、僕が文楽を初めて観た記念すべきものなのですが、その時は四段目のみの上演でした。しかし今回は通しということで「あのお話の前半が観られる!」と期待感いっぱいで臨みました。

第1部初段、久我之助と雛鳥の出会い。これは僕の好きなインド映画でもよくある、ひと目惚れから始まり、それが最後まで恋心が弱まることなく、幾多の障害を乗り越えていくという展開です。インド映画なら最後はハッピーエンドで目頭が熱くなるのですが、文楽の場合は何でそこまで行くかというような悲劇で、胸を掻きむしられるような気持ちになるのです。

三段目の妹山背山の段で、その悲劇は起こるのですが、嫁入道具が川越しに送って無事着くのなら、何で雛鳥を殺したことにして、生きたまま棺桶に入れて流さなかったのか?死体の首と祝言なんかあり得ない!と、無性に憤りを感じてしまったのです。出来ることなら、久我之助も自害したことにして、その棺桶に一緒に入り川を下って逃げ延びて結ばれて欲しかった…などなど。でもそう思いながらも感動して泣いてしまうのが文楽の真骨頂なのでしょうね。

この段の左右別れての、太夫さんと三味線さん同士のバトルは凄かったです。下手の床に技芸員さんがいるのを見たのも初めてです。左を見たり右を見たり、もちろん舞台の人形も上の字幕も見なくてはならないし、こちらも大忙しで興奮は高まり放しでした。

第2部の四段目は前に観ていて知っているはずですが、新しい発見があったり、同じ所で笑ったのを思い出したりして、何度観ても良いなぁ深いなぁと感じました。ここが古典芸能の素晴らしいところだと思います。鑑賞後、家に帰って前のパンフレットの解説を読んでいたら、五段目もあるらしく、蘇我入鹿の最後やら、橘姫と淡海が結ばれるハッピーエンドやら、全編観たいなと切に思いました。

舞台が奈良ということもあって、実際に行った所が思い浮かぶのが面白かったです。僕は毎年7月中旬、春日大社にヒメハルゼミの大合唱を聴きに行っています。ヒメハルゼミは日が落ちて薄暗くなった頃、一頭が鳴き始めるとそれにつられて何百何千頭が一斉に鳴き出します。その天から降り注いでくる様な声のベールは5分ぐらいでパタリと消え、辺りは静まりかえる….そしてそれをまた繰り返す、という神秘的な蝉です。今年もきっと訪れるつもりですが、その時はヒメハルゼミの声を聴きながら、この文楽の話を思い出すことでしょう。

■チチ 松村(ちち まつむら)
1954年大阪生まれ。10代後半から音楽活動を始め、ソロアーティストとして関西で活躍。ゴンチチ結成以降は、音楽活動の傍らエッセイ等の執筆も行い、『わたしはクラゲになりたい/河出書房新社』『ゴミを宝に/光文社』『それゆけ茶人/廣済堂出版』『緑の性格/新潮社』『盲目の音楽家を捜して/メディアファクトリー』など、これまでに14冊の著書を上梓している。一方、自らを「茶人」を称し、風流な生活を実践。「変な物好き」としても広く知られている。

(2016年4月19日『妹背山婦女庭訓』第一部、第二部観劇)