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国立文楽劇場

大急ぎの生き写し

鈴木 創士

川面を渡る風に吹かれて誰のものとも知れぬ短冊が、生涯を浮かべたように水に浮かぶ小舟にひらひらと舞い落ちる。蛍の火が水辺のあちこちに灯り、小舟からは三味線の音が聞こえています。この浄瑠璃の冒頭はたしかに抒情的であり、とても美しいものだと言っていいでしょう。 ひらひらと舞い落ちる短冊はえにしの歌を紡ぐ歌であり、今度は恋のえにしは空から落ちてきた禍いのように物語を紡ぐことになります。この川辺でたまたま出会った阿曾次郎に一目惚れした深雪は、すでに最初から朝顔に生き写しだったのでしょうか。 阿曾次郎に、恋でぼぉーとなった後の朝顔こと深雪は、扇子に歌を書いてくれと所望します。

露のひぬ間の朝顔を照らす日影のつれなきにあわれ一村雨のはらはらと降れかし

露が乾いてしまうまでは咲いている朝顔なのだから、日の光はつれないし、どうかにわか雨でも降っておくれ、というわけです。この歌はこの劇の要であり、概念であり、人にたとえるなら、ほとんど表に登場しない一種の狂言回しのようなものです。

自分が一目惚れされていることに気づいて、それを書いて手渡す阿曾次郎も、儒学を勉強しているというのによくやるなあと思います。いきなりこの歌ですから。

私は思い違いをしているのでしょうか。浄瑠璃の声色、音色は、不思議なものです。これは、この歌は、情緒なのか性急さなのかよくわかりません。すべての日本の伝統芸能には、下世話な話の背後にも極度の抽象性が控えているように思えます。あるいは芸のもつ生々しさは、それが直截のものであれ、複雑なものであれ、時と場合によってはひとつの曖昧さ、高度な曖昧さを準備するものであるのだとも思います。このことをことさらに強調すべきではないのかもしれませんが、とにかく私が見ているのは現代演劇ではなく人形浄瑠璃なのです。

しかし冒頭の抒情はすぐに破られます。序破急はまずもってとりあえずの論理的で美学的な必然です。ですが、浄瑠璃が、実際の上演の時間がいくら長くても、物語のなかの有為転変を越えて、いつも急いでいるように思えるのは私の聞き違い、勘違いでしょうか。人形浄瑠璃全体の長さは、急を要する関所、落としどころを際立たせるためにあるのではないかと思えるほどです。

ところで、たしかに源氏物語の時代このかた朝顔ははかなさの象徴であるのでしょうが、何しろ露が驟雨にとってかわるくらいですから、朝の最初の光に蒸発してしまう露ではなく、降ったり止んだりまた強く降る叢雨はただ哀れなだけではないでしょう。 言うまでもなく、朝顔は打たれ強いことを暗示しているなどと言えば誤読か無駄な深読みに、要するに言い過ぎになるでしょうし、さすがにこの朝顔の濡れる喩えが暴力的であるなどと言いたいのではありませんが、それでもこの喩えの脱線というか逸脱はどこかしら主人公の深雪という人に生き写しではないかと言いたくなるのもほんとうです。

それに朝顔がいくらはかないものであったとしても、ともかく深雪本人はお転婆なお嬢さんです。エキセントリック娘です。それだけは言えるのではないでしょうか。何しろ短冊のえにしで一目惚れしてすぐに、火急の用事が舞い込んだ阿曾次郎が立ち去ろうとすると、出会ったのはついさっきなのに、もう縋りついて「行かないで!」と最初からわがままを言ってだだをこねるくらいなのですから。

しかも深雪のエキセントリックぶりはこれが手始めにすぎません。後の「岡崎隠れ家の段」での阿曾次郎に会いたさ故の身を焦がす意気消沈、自殺でもしかねないくらいのふさぎ虫、「明石浦船別れの段」で月影に照らされた海の上で船から船へと飛び移るお転婆ぶりと、再度の別れのつらさから脅迫ともいえる身投げへのほのめかし、そして出奔の後の落魄の身空、とうとう目の光を失って瞽女(ごぜ)に身をやつした深雪がかつての乳母と出会う場面「浜松小屋の段」……、すべてこの深雪のキャラクターの真率さが原動力となっているのではないかと思います。 劇は、深雪のエキセントリックな気まぐれにその鼻面をひきずり回されているといっても過言ではありません。

私は最初にちらっとミユキちゃんのお転婆ぶりを目にしたとき、なぜか三島由紀夫の『夏子の冒険』の夏子を思い出したほどです。きっぷのよさ、ということではありませんし、こんな比較にたいして根拠がないことはわかっています。三島由紀夫の小説作品が私の特別なお気に入りというわけでもありませんし、勿論こんな類推は単なる私の貧弱な妄想のなせるわざにすぎませんが、それでも文楽の、言葉のさまざまな意味における「間」は、このような妄想をかきたてるところがなきにしもあらずですし、たぶん浄瑠璃の独特の「色気」はこのへんにも醸し出されているのではないかと思います。

それにハッピーエンドで終わることになるこの『生写朝顔話』は悲劇などではありませんし、少なくとも私は最初からそのような印象を受けました。 この感をさらに強くしたのは「薬売りの段」のあの売人、怪しげな医者くずれの桂庵です。浜松城下のお宮へといたる道端でこの悪人が売っているのはなんと笑い薬です。笑い薬! 察するところ、毒キノコか何かその類いのものなのでしょう。つまりありていに言えば、危険ドラッグです。おまけにこれは通りすがりの悪ふざけではなく、後の話の筋にとっても小さからぬひとつの鍵となります。なるほどここでは、それを演じる登場人物ともども、おかしな、愉快なトピックではあるのですが……。

勿論、伊勢神宮などにも「大麻札」という神札があったくらいですから、わが国にも古来よりそのような類いの不思議とも言えるような言えないような話題には事欠きません。このことは時間のなかに隠された多くの事柄の一端を語っていますし、あるひとつの古い真実を人類である私たちに突きつけるのですが、まあ、ここでは大袈裟すぎますし、その話はよしておきましょう。

ともあれ、近松の浄瑠璃などとは違って、この『生写朝顔話』にはいくつもの「出口」があるように思われます。この出口から人は楽しげに劇場を後にし、やがて自分の妄想から抜け出すのでしょうか。ただそのへんのところは、ひとしなみには言えないところであるのかもしれません(だけど私がいままでここに書いてきたことはどれも言うところの出口に関することにすぎません)。 反対に、悲劇はひとつの充溢であり、充満です。最小限言えるのは、それは感情や情動についての充溢です。ギリシア悲劇しかりです。

それにしても今回は「明石浦船別れの段」の鶴澤寛治師の三味線に聞き入ってしまいました。その音色を目を細めて思い浮かべるなら、いままで私が述べてきたことがほとんど無用の長物のようにも思われ、自分が書いたことについていささか落胆せざるを得なくなります。 三味線の名人にかかると、浄瑠璃が人形に生き写しのようにもなるし、また人形が浄瑠璃に生き写しのようにもなり……。あの音色はいったいどこから響いてくるのでしょう。 言うまでもなく、このことはとてもとても稀なことでしょうし、素晴らしい経験ならぬ経験でもあるでしょう。 そして同時にこの生き写し現象の反対のことも起こるような気もします。何というか、つまり劇をある意味で決定づける音色や響きとともに、人形浄瑠璃の劇自体の、どう言えばいいのでしょう、「乖離」のようなことが起こるのです。浄瑠璃の文章の意味とも筋立てとも無関係に。これもまた極めつきの名人芸であるには違いありません。 三味線を持つ少し傾げた肩の線から、そして斜めに傾いたような、涼しげな、どちらかといえば音量が少な目の寛治さんの趣ある三味線の音色の行方から、何かが静かに、にわかに、離脱してゆくような気がするのです。この点では人形浄瑠璃は他の何にも似ていません。恐らくこのようなことはギリシア悲劇には起こらないのでしょう。 だから私はこの離脱を前にしてもう筆を擱かざるを得ないのです。

■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、『ザ・中島らも』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。

(2015年7月20日第二部『生写朝顔話』観劇)