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国立文楽劇場

畏敬の涙は

くまざわ あかね

「悲しい涙は目より出で、無念な涙は耳からなりとも出るならば、言はずと心見すべきに、同じ目より零るる涙」

第二部「天網島時雨炬燵」の治兵衛のセリフです。

今回の第一部の襲名披露口上、そして「熊谷陣屋の段」を見ながら、「ただただ美しいものを見たときの涙、畏敬の念に打たれての涙は、どこからこぼれおちるのだろうか」と思ったのはきっと、それほど泣けて泣けて、しかたなかったからかもしれません。

伏線として非常に大切な「熊谷桜の段」が終わって「熊谷陣屋の段」。熊谷が陣屋へ帰ってくるところの文句がすばらしい。

「花の盛りの敦盛を 討って無情を悟りしか さすがに猛き武士(もののふ)も
  ものの哀れを今ぞ知る」

浄瑠璃の文句からして観客をだましていますが、実は熊谷は敦盛を討ったのではなく、身代わりとしてわが子の小次郎を手にかけています。いくら武士でも、わが子を死なせたとなるとさすがにやりきれない。万感の思いで帰還すると、そこには、いるはずのない妻の姿が。 「わが子の死を知ったら妻は悲しむだろうな…こいつを悲しませたくないな…できれば、小次郎の死を知らせるのは先のばしにしたかったのに…なぜおまえがここにいるのだ」 咲大夫さんが語る「妻の相模を尻目にかけて」という短い文句から、そんなさまざまな思いが伝わってきます。

堤軍次が舞台から去ったあと、敦盛を討ったと相模に語る熊谷。そこへ突然「わが子の敵!」と熊谷に切りかかったのが、敦盛の母親である藤の局で、ここから熊谷・相模・藤の局と3人の舞台がしばらく続きます。遣っているのは、二代目玉男さん、和生さん、勘十郎さんの、同期の3人です。

公演パンフレット「襲名への道のり」のページには、入門の当時の3人のお写真が掲載されています。まだ子どもで、屈託のない表情の玉男さん、ちょうど敦盛と同じぐらいの年頃でしょうか。その下には、襲名披露の記者会見のときのお写真も。和生さん、勘十郎さんが玉男さんの両側に座り、しっかり脇を固めておられます。

入門当時から記者会見までの間には、ざっと48年が経過しているわけですが、その間ずっとずっと、一緒に修業してこられたんですね。48年もひと昔、長かったのか短かったのか、それとも夢であったのか。お披露目の口上で勘十郎さんが、玉男さんに対しておっしゃった「よき友として」という言葉が頭をよぎります。

そんな3人の、3人だけの舞台。

若くして命を落とした小次郎と、重なって見えてきたのが

文楽にあこがれたものの、この世界に飛び込むだけの勇気がなかった人たち志なかばで亡くなられた技芸員さんそして、心ならずもこの世界を離れざるを得なかった方たち…

たくさんの人たちの、夢や思いや憧れ、そして「オレのかわりにがんばってくれ!」「自分はできなかったけど、文楽を次の世代に残してくれ!」という期待を、玉男さん、和生さん、勘十郎さんがずっしりと背負ってまさにいま、熊谷・相模・藤の局として舞台に立っておられるんだなぁと。そんなふうにして過ぎ去った48年という時間の重みと積み重ねのすごさ、それをことさら声高にアピールすることなく、当たり前のように淡々と受け止めている文楽という芸に、とてつもなく崇高なもの・美しいものを見たような気がして、涙があふれて仕方なかったのです。

泣きのツボのスイッチが入ってしまったのでしょうか、「熊谷陣屋の段」が終わり、休憩も過ぎて「卅三間堂棟由来」、お柳役の簑助さんが出て来られただけでまたまた泣けてしまい、となりに座った見知らぬおじさんに「大丈夫かこの子」と顔をのぞきこまれてしまったのでした。

■くまざわあかね
落語作家。1971年生まれ。関西学院大学社会学部卒業後、落語作家小佐田定雄に弟子入りする。2000年、国立演芸場主催の大衆芸能脚本コンクールで、新作落語『お父さんの一番モテた日』が優秀賞を受賞。2002年度大阪市咲くやこの花賞受賞。京都府立文化芸術会館「上方落語勉強会~お題の名づけ親はあなたです」シリーズなどで新作を発表。また新聞や雑誌のエッセイ、ラジオ、講演など幅広く活動。著書に、『落語的生活ことはじめ―大阪下町・昭和十年体験記』、『きもの噺』がある。大阪府出身。

(2015年4月7日・8日『絵本太功記』『天網島時雨炬燵』『伊達娘恋緋鹿子』、
4月10日『靱猿』『口上』『一谷嫰軍記』『卅三間堂棟由来』観劇)