文楽かんげき日誌

「関取千両幟」八代豊竹嶋大夫引退披露狂言を見て

下平 晃道

初春文楽公演(第一部)千秋楽に行ってきました。演目は「新版歌祭文」「関取千両幟」「釣女」の三つで、特に、仲入り後の「関取千両幟」は、八代豊竹嶋大夫引退披露狂言となっていて、大阪で見られる嶋大夫の最後の語りを聴こうと、劇場は沢山のお客さんで溢れていました。嶋大夫が一礼すると大喝采が起き、この舞台が特別なものであるという緊張した雰囲気の中、すっと幕が開きました。

朗々と語りあげる嶋大夫。パンフレットのインタビューで語られていた「伝統芸能は、まず、模倣から入る。力がついてきたら自分が出てくるもんです」という言葉が心に残りました。

人気力士の猪名川は、自分のことを贔屓にしてくれている鶴屋の若旦那、礼三郎のために錦木太夫の身請けをしたいのだけど、それに必要な銀が二百両足りず、支払の期限である今日を迎えてしまいます。そして、今日中にその銀を用意できなければ、錦木太夫は別の客のもとへ身請けされるという伝言を受け、しかも、その別の客というのが、同じく力士で、今日の対戦相手である鉄ヶ嶽だと知るのです。(鉄ヶ嶽の方では礼三郎とライバル関係にある九平太という者の身請けを世話をしています)登場人物の関係性が明らかになり、物語は展開していきます。

鉄ヶ嶽は猪名川に向かって、今日の対戦によっては身請けの件を考えてやっても良いぞと、思わせぶりな態度で勝ちを譲るように迫り、猪名川は身請けをするためにわざと負けるべきか、大事な相撲を取るべきかで悩みます。つまり、錦木太夫をめぐっての礼三郎と九平太による争いなのですが、矢面にたっているのは猪名川と鉄ヶ嶽であり、猪名川は正々堂々と戦って勝ちたいのに、弱みを握られ、勝つ事ができないというジレンマを抱えてしまうのです。 ここで、猪名川は自分が悩む姿を女房のおとわに見られてしまいます。おとわには夫の心の中が手に取るようにわかります。「遠くへ巡業へ出ている時には、怪我のないようにと一人で神仏に祈り、身を案じて夜も眠れぬほど苦しい時を過ごしているのに、そんな私になぜ悩みを打ち明けないのか」と切々と訴えるのです。

猪名川の髪を整えるおとわ。「押してはいはぬ縺れ髪、鬢の、ほつれを撫で付ける櫛の背より夫の胸、映して見たき鏡立。映せば映る顔と顔」この時、おとわは鏡を前にして、乱れた猪名川の髪を整えながら会話をしているのですが、お互いの表情を鏡を通して間接的に見ているのです。背中越しに鏡を通して見えるのは、いつも見慣れた相手の顔。しかしいつもと違うように映っているのでしょう。そこで二人は何を思ったのか。

さあ、ここから相撲の取組みが始まるぞという時に、大夫と三味線の乗った盆がくるりと回転しました。これまで語っていた嶋大夫が後へ周り、大きな拍手の中、代わりに三味線が一人で現れ、すぐさま客席から「かんたろう!」という声がかかりました。表へ現れたかんたろう氏は太々しくジッとして前を見据え、いかにも何かしでかすぞという雰囲気に満ちていました。これまでの観劇では話の筋しか追えなかった私ですが、独特な雰囲気のこの人は誰なんだろうとパンフレットを覗き見て、この「かんたろう」は曲弾きのところに名前の書かれた「鶴澤寛太郎」のことだとわかりました。 曲弾きというのは、三味線を特殊な技巧で弾いたり、非常な速さで弾いたりすることなのだそうですが、目の前でおこなわれた演奏は、そういうことを遥かに越えたアクションで、三味線の撥を宙に投げたり、撥をボトルネックのようにしてスライドギターのような音色にしたり、三味線を頭の上で弾き始めたり、弦を指だけで弾いて、ひたすら単音だけを響かせたりと、彼が何か新しい弾き方を始めると、会場全体がわっと沸きました。長い演奏が終わると、再び大きな拍手が起き、同時に盆がくるりと回転して、先ほどと同じように嶋大夫が現れ、また大きな拍手が起きました。

鶴澤寛太郎の演奏。とにかく目の離せない演奏で、イラストでは撥を三味線の先端(天神)についている糸巻き部分に乗せている場面を描きました。劇場の方に曲弾きについて訊ねてみると、昔は曲弾きの時に、蝋燭の火を消して演奏したこともあったということで、それも機会があればぜひ体験してみたいと思いました。

 曲弾きの最中に下りていた幕が上がると、舞台には土俵のセットが立っていました。土俵入りの時には、人形が、先日の初場所で優勝した琴奨菊の琴バウアーを披露したので、その仕草に沸く客席。こうして、時々、時事ネタを挟んでくれるのが面白いところ。 さて、猪名川と鉄ヶ嶽の取組が始まると、やはり猪名川は力を出す事ができません。鉄ヶ嶽のつっぱりに負けてしまいそうになったその時、「進上金子二百両猪名川様贔屓より」という声が聞こえます。つまり勝てば二百両のご祝儀がもらえるというのです。これによって存分に力を出す事が出来た猪名川が、鉄ヶ嶽を押切って勝利を決めました。私もまるで、本当に土俵際にいる観客になったつもりで、猪名川へ喝采を送りました。

二百両の懸賞金がつくことがわかり、形勢逆転した猪名川が鉄ヶ嶽に勝利します。

しかし、この二百両は誰から?と思っていると、猪名川が帰る道中、駕籠とともにあらわれた北野屋の口から、ことの次第が語られます。

猪名川「ヤアわりや女房か」
おとわ「猪名川殿、随分健でゐて下さんせ」
猪名川「ウンそんなら今の二百両は」
北野屋「コレ関取、お内儀の勤め奉公、志の二百両」
猪名川「女房ども、何にも言はぬ忝い(かたじけない)」
北野屋「サア駕籠の衆、やつて」

なんと、おとわは、猪名川のために自分を身売りして二百両を工面したのです。この場面、二人の間で交わされるこの簡潔な会話だけで、心の中を語るような描写がほとんどないことが、おとわの潔さと覚悟を際立たせ、駕籠にのって廓へ向かって消えていくおとわを見送り、立ちすくむ猪名川の背に、複雑な余韻を残しつつ物語は閉じました。

割れんばかりの拍手が起きて終演。嶋大夫は人形に花束を手渡され、そこでまた大きな拍手が巻き起こりました。

さて、幕が降り、舞台上に嶋大夫が現れ、花束が贈られました。これまで私は、特に物語の筋を気にして見ていたのですが、今回のような特別な場面に巡り合えたことで、これからは誰が語り、三味線を弾いているのかにも注目してみたいと思いました。(その上、人形遣いの差にも気がつくほどになれれば最高ですが) というわけで、新しい楽しみ方が増えて、次回の公演が待ち遠しくてたまりません。

■下平 晃道(しもだいら あきのり)
イラストレーター、美術作家。1973年生まれ。東京造形大学彫刻学科卒業。2002年よりフリーランスのイラストレーター(Murgraph または下平晃道)として活動を始める。以後、広告、雑誌、装画、ウェブサイト、ミュージシャンやファッションブランドとコラボレーションした商品等のイラストレーション、ライブドローイングなどの仕事を手がけている。京都市在住。

(2016年1月26日第一部「新版歌祭文」「関取千両幟」「釣女」観劇)