文楽かんげき日誌

家族と共同体と近松と

黒澤 はゆま

2016年もついに始まった。2016年。いや、まさか来るとは思わなかった2016年である。「鉄腕アトム」も「2001年宇宙の旅」も「バックトゥザフューチャー」も、気づいたら、皆通り過ぎてしまった。

「エヴァンゲリオン」だって、「時に西暦2015年」と仰々しく言っても、「あぁ、去年の話ね」になってしまう。「北斗の拳」だけが中東で現実のものとなった。

1月半ばを過ぎて、聞こえてくるのは、テロだの、水爆だの、不倫だの、バス事故だの、解散だの、私たちが一向に進歩していないことを示すニュースばかり。うすうす気づいていたが、どうやらあの頃の未来に私たちが立つことはないようだ。

人間は進化しない。世界の革新もない。戦争はやまず、家族は破綻し、信頼は裏切られ続ける。

かつて確かにあった、未来のモデルは失われた。こうした時代、思いをはせるべき未来の失われた時代にあって、私たちは何を道しるべにしたらよいのか?

その答えは過去にあるのかもしれない。歴史も神話も過ぎ、マンモスを追い、洞穴に獲物の血で絵を描いていた頃よりも昔。アフリカの密林で、果物をもぎ、木の皮をかじり、気ままなセックスとそれを巡る激しい争い、甘やかなまどろみ、自然と本能がすべてだった時代。

ゴリラ研究者で、彼らの生態から文明の起源を探っておられる、京都大学総長の山極教授によると、霊長類のなかで「家族」と「共同体」両方の集団に属すことが出来るのは、人間だけであるらしい。

家族は身内を一番に考えるえこひいきの集団であるのに対し、共同体は平等と互酬を基盤にしている。成立の原理が違い、通常両立はありえないというのだ。

だとしたら、それを、なんとか成り立たせようとしているところに人類の無理があり、悲劇のすべての元があるのではないだろうか。

そう喝破したのが、おとなり中国の孔子さまである。紀元前6世紀頃、彼はこの問題の解決策として儒教を創始した。「斉家治国」、家斉へば、国(共同体)治まると説き、家の絆を強める孝行と、共同体を秩序立てる忠義を、統一した理論のなかで整理・体系化したのだ。

しかし、これは、家族と共同体という、材質も規格も違うものを、忠孝という一つのボルトで締め上げようとする無茶なことだった。

孔子自身の挫折続きの人生が示すように、苦心惨憺のこしらえ事は必ずしもうまく機能しなかった。ボルトが締まるたび、家と共同体は不快な摩擦音を立ててきしみ、個人が、しかも一番弱い者が血を流した。

今回、観劇した国性爺合戦、甘輝館の段で、私たちはその端的な例を見ることが出来る。

和藤内の復明の大義に思い迷う甘輝は、義母がかばう妻の錦祥女に刀を突きながら言う。

「ヤイ錦祥女、留むる母の詞には慈悲心こもり、殺す夫の剣の先には忠孝こもる、親の慈悲と忠孝に命を捨てよ女房」

家族を守ろうとする母の情愛と、共同体に尽くそうとする甘輝の論理が衝突し、激しい火花が散っている。この二つは決して両立しない。両立させようとすれば、必ず血が流れる。近松の天才は、私が長々と書いた駄文を、白刃一閃、たった一行で表現しつくしてしまったようだ。

吉江松平家二万五千石の重臣の血筋から、公家侍を経て、河原者と蔑まれた芸能の世界に入った近松は、こうした機微を嫌というほど知り尽くしていたのだろうか。

クライマックスの獅子が城の段。母と娘は、

「サァ錦祥女この世に心残らぬか」

「何しに心残らん」

と、手に手を取って、自らの命を絶つ。

孔子の説いた「斉家治国」のなかで治国の論理だけが残る。母と妻の血の海から、和藤内と甘輝、二人の英雄は明という共同体の復活のため飛翔する。しかし、錦に身を包みながら、彼らの内面は空虚である。この時から、和藤内達は古代や中世の英雄がそうであったように、激情と行動の世界の人になる。

内面があるのは、彼らの足元で断末魔にもだえる、母と錦祥女の方だ。なぜなら、人の内面とは、家族と共同体、その二つのきしみに血を流しながらあげる悲鳴そのものだからだ。

実は、先の孔子の言葉は前と後ろがあって、「修身斉家治国平天下」となっている。身を修め、家を斉へ、国治めれば、天下平らかとなる、という意味だが、近松はその長い創作人生のなかで、一貫して「修まらない身」にこだわり続けた人だった。

世間から見捨てられ心中するカップル、ふとしたことで魔がさし人を殺める若旦那。彼が書いてきたのは、そうした家族や共同体からもはみ出した「身」個人だった。

盟友、竹本義太夫の死後の竹本座を盛り立てるため、分かりやすい「治国平天下」を主題とする大エンタティメント作品を求められながら、近松は自分の畢生のテーマを決して捨てなかった。

文楽であれ歌舞伎であれ、「国性爺合戦」で最も上演されるのは三段目で、大願かない明が復興する五段目ではない。血沸き肉躍る英雄の活躍より、家族と共同体の論理に、すりつぶされる二人の女性の流血と死に観衆は心惹かれてきた。

それは、国性爺合戦が単なる軍談ではなく、他の数多くの近松の傑作と同じく、人間のドラマであることの証左である。

今年も、身は修まらず、家は斉はず、国は治まらず、天下は平らかでない年になるだろう。そのなかで、もし希望を失わない方法があるとしたら、徹底的に、修まらない身にこだわり続けることにあるのではないだろうか。

どうぞ、今年もいい年になりますように。

■黒澤はゆま(くろさわはゆま)
作家。1979年生まれ。宮崎県出身。九州大学経済学部経営学科卒業。九州奥地の谷間の村で、神話と民話、怪談を子守歌に育つ。小説教室『玄月の窟』での二年の修行の後、2013年『劉邦の宦官』でデビュー。大阪府在住。

(2016年1月10日第二部「国性爺合戦」観劇)