日本芸術文化振興会トップページ  > 国立文楽劇場  > 罪の所在と罰の意味

国立文楽劇場

罪の所在と罰の意味

玄月

戦争物に限らず、映画やドラマでは人が簡単かつ大量に死ぬ。ヒーローが無数の敵を葬ったあと、たったひとりの命を助け出して観る者の感動を誘おうとする。守るべきもののための殺戮は正義であるのだ。

「バトル・ロワイヤル」や「悪の教典」では、子供たちが不条理な理由でつぎつぎ殺される。無辜の命も容赦ない。それぞれの死は無味乾燥ではなくある程度の背景が味付けがしてあり、観る者に複雑な感情を残す。
「仁義なき戦い」や「冷たい熱帯魚」など、私利私欲のために殺人を犯す映画はいくらでもある。

現代人は、たいていの「殺人」には慣れてしまった。食傷気味でさえある。軽薄ささえ感じる。無残に人を殺すところを見せるのが目的になってないか。
そんなことを感じている人は、文楽を観るべきだ。
「奥州安達原 一つ家の段」において、岩手という名の老婆が犯す罪は、私が50年生きてきて見聞した中でもっとも重いが、一方で人間の罪とはなにか、よくわからなくなった。
人間は、必ず動機があって人を殺し、その結果からなにかを得ようとする。一瞬の激情だろうが「誰でもよかった」的な通り魔だろうが単なる暇つぶしだろうが、変わりない。
岩手の動機は、あまりにも単純かつ純粋であり、そのためもあって人を殺すのに一切のためらいがない。

岩手の大義は、亡き夫・安倍頼時の大望を成し遂げることであり、切り札として誘拐していた天皇の弟・環の宮の声が出ない病気を治すために胎児の血が必要だった。
奥州の安達原のあばら家で追い剥ぎをして資金集めをしながら好機を待っていると、妊婦の旅人がやってきて殺害、胎児を取り出して血を採る。この妊婦が実は岩手の娘であることがのちに守り袋からわかり、つまり胎児は孫になる。しかしそれも大義のためならば。殺す前にわかっていたら、この手柄者果報者と褒めて殺すところだったとのたまう。
ところが、環の宮もお付きの匣の内侍も、敵方にすり替わっていたことが判明する。環の宮の声の病気ももちろん嘘である。

岩手の心情は、絶望という使い古された言葉では言い表せない。
「……人を人とも思はぬ天罰、たちまち報ふて血を分けし娘を親がなぶり殺し、さぞや苦しかりつらん、地獄畜生餓鬼修羅道、その苦しみを身一つに受けし因果を断ち切って、冥途の旅で言ひ訳せん、娘よ、孫よ、暫く待て」
と、自害する。

文楽を観るときは、いつもあらかじめ粗筋を読んでおく。ときにストーリーがあまりに入り組むからだ。この段のことはある程度わかったつもりだったのに、ぎょっとし、唖然とし、やがて慄然とした。神経は人形の動きに釘付けになっているが、もちろん人形だけがそうさせるのではない。太夫の語りと三味線と人形が寸分の隙もなく絡み合って、心の深いところ、人間の存在自身をも揺すぶってくる。

岩手の罪は、実際に行った殺人にのみ着せられるのではない。では、いったいなにが悪なのか。いや、この事件はそもそも悪なのか。正直、それすらわからなくなってきた。
「一つ家の段」が歌舞伎で演じられているのか知らないが、作者の近松半二が文楽のために書いたのだから、人形と太夫の語りと三味線の三者が揃わなければならない。つまり、岩手は人形でこそ演じられる。人形でなければ、あのリアリティは生まれないのだ。

■玄月(げんげつ)
作家。大阪南船場で文学バー・リズールをプロデュースし、経営している。1965年生まれ。大阪市立南高等学校卒業。2000年「蔭の棲みか」で第122回芥川賞受賞。著書に、『山田太郎と申します』『睦言』『眷族』『めくるめく部屋』『狂饗記』など。大阪府在住。

(2014年11月18日 第二部『奥州安達原』観劇)