文楽かんげき日誌

魂が入る時

中沢 けい

大阪の桜と言えば、造幣局の通り抜けや、毛馬堤の桜が名高いけれども、谷町筋と松屋町筋の間にある崖にぽつりぽつりと咲く桜もなかなか懐かしい感じがする。お寺が並ぶ裏の崖に桜がほんのりとした枝を張り出している。「菅原伝授手習鑑」を文楽劇場で見たのはそんな頃だった。

崖の眺めが途切れると、高速道路の高架の向こうに文楽劇場の幟がはためく。
 「今月の文楽劇場はにぎやかですなあ」
 とタクシーの運転手さんが言った。

竹本住大夫さん引退。私が出かけた昼の部に住大夫さんの出演はなかったが、それでも多くの人が文楽劇場に足を運んでいた。出し物は「菅原伝授手習鑑」である。

菅原道真と言えば天神様。天神様は学問の神様。天神様の合格祈願をした受験生も晴れてそれぞれ志願した学校へ入学する季節にふさわしい出し物だった。

舞台の菅原道真はまっしろな衣装で、しめ縄が張り廻らされた奥座敷にいる。まだ生きている菅原道真であるのに、しめ縄のうちに現れるともう神格化されているかのように見える。それがなんだか珍しく感じられた。

文楽のひとり遣いの人形を楽屋で見せてもらったことがある。「でくのぼう」という言い方があるが、ひとり遣いの人形は、まさに木偶であって、「でくのぼう」である。これを動かすと、木偶にも魂が入る。この魂が入る感じは、子どもの頃、指人形で遊んだ記憶に通じていて、手にとるまではただの人形であったものが、動きを得たとたんに、生きた遊び相手に変身した。ひとり遊びであっても、魂が入った人形がそばに居てくれると飽きることがなかった。日暮れにひとりで留守番などをしている時、魂が入った人形は心強い味方であった。刻一刻と家の中に広がる暗がりに潜んでいるかもしれない魔物から、私を守ってくれる味方だった。

劇中でまだ生きている登場人物の一人であるはずの菅原道真を眺めながら、私は日暮れの闇に潜む魔物から守ってくれた私の「でくのぼう」たちを思い出していた。それは熊のぬいぐるみであったり、NHKの人形劇「ちろりん村」の登場人物の指人形であったり、バービー人形だったりした。玩具箱に放り込まれている時はただの「でくのぼう」だが、私の手とつながる時、それらに魂が入る。あの魂はどこから来たものなのだろう。子どもの頃に不思議に思ったことを、文楽劇場の座席でもう一度鮮明に思い出したのは、しめ縄のうちの菅原道真があまりにも神々しかったからだ。

菅原道真の神々しさは白い衣装によって余計に際立たせられている。人形を使う人が畏まり人形に仕えているように見える。子どもの頃、人形劇を見ていると魂を吸い取られるような気がした。いや、魂を吸い取られたような顔で夢中になっていると、親から言われることが度々あった。そんな気持ちを思い出したくなる。思い出せそうで、それをうまく思い出せない。まるで金魚鉢を覗いているような感じだ。子どもの頃のあの感じは金魚鉢の中でゆうゆうと泳いでいる金魚のように私から隔たっていた。神々しさというものは、きっとあちらこちらから集まってきた魂が放つ光のようなものかもしれない。

舞台で演じられているお芝居のスジとか、語られるセリフの意味とか、そういうものはさておいて、ただひたすら、魂が入り、その魂が神格まで高められた人形に見入ってしまいたいという欲望が私のそばにいた。それなのに、やっぱりスジを理解したいとか、セリフの意味を知りたいとかという大人の欲望もまた私にはあった。子どもの時から文楽を見ることができた人はうらやましい。きっと神格が備わった天神様と素直に対面できるのだろう。

■中沢 けい(なかざわ けい)
作家。法政大学教授も務める。1959年生まれ。高校在学中に書いた「海を感じる時」で群像新人文学賞を受賞。1985年『水平線上にて』で野間文芸新人賞受賞。著書に『野ぶどうを摘む』『女ともだち』『豆畑の昼』『さくらささくれ』『楽隊のうさぎ』『うさぎとトランペット』など。千葉県出身。

(2014年4月23日「菅原伝授手習鑑」第一部観劇)