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国立文楽劇場

近松、「出口なし」

鈴木 創士

『女殺油地獄』は身も蓋もない話です。ある意味でいまだに解決できていない、精神分析や心理学の格好の餌食となるような、大昔から繰り返されてきた「家族」の不幸。これは「悪」自体を描いているのでしようか。そうでもないし、それだけでもないように思います。それにしてはずいぶんあっさりしています。例えば、「悪逆の哲学者」だった作家サド侯爵と比べればわかりやすいかもしれません。悪を体現するサドの登場人物たちは明らかにみな「倒錯者」ですが、近松の登場人物たちはそうとも言えません。 話はかなり単純です。父親とは血のつながりのない商家の放蕩息子が、義理の父に反抗し、遊ぶ金欲しさの借金のために、進退窮まって、とうとういままでお世話になっていた善良な婦人を惨殺してしまうのです。実際、芝居を見ている最中に、私の後ろの席にいたご婦人の「こんな息子やったらいらんわ」という独り言が聞こえてきたほどです。失礼ながら、この不意の寸評はおかしかったのですが、私は笑うことができませんでした。

ということは、どこにでもある話、私たちが容易に想像できる、あるいは体験し得る話ということなのですが、近松門左衛門の晩年の作であるこの世話物が、江戸時代に実際に起きた、それもそれが書かれるさほど遠くない時期に起こった事件を元にしていることは想像に難くありません。近松のリアリズムここに極まれり、と言いたくなるほど何の伏線も装飾も哲学も思想も幻想もありません。 近松はジャーナリストだったのか、今風に言えばルポライターだったのか、と言いたくなるところですが、勿論、普通の意味ではそうではないと思います。何しろ人形浄瑠璃、歌舞伎の劇作家なのですから。簡単に言ってしまいましたが、このことには芸術というものの謎自体がスフィンクスのように立ちはだかっていているのですから、ほんとうは何頁も費やさなければならない事柄なのでしょう。 同じところをぐるぐる堂々巡りするのもアレなので、何頁も費やすことはいまはやめておきますが、とはいえそれはそれとして、ここでは近松の作品だけの問題に限っても、それでも他の作品、例えば『曾根崎心中』などと比べると、この『女殺油地獄』の無い無いづくしのリアリズムはあまりに度し難いものなので、私としては唖然とするあまり、少し暗澹たる気持ちにならざるを得ません。サルトルじゃないですが、出口なし、なのです。文字どおりの意味で。出口がなければ、入口もないことは、言うまでもありません。別の言い方をすれば、どこにでもある話を、無い無いづくしのまま、これほど身も蓋もなく描いてみせる近松の才能は、驚くべきものであると言ってもいいかもしれません。 殺しの場面はこんな感じです。

『南無阿弥陀仏』と引き寄せて右手(めて)より左手(ゆんで)の太腹へ、刺いては刳(えぐ)り抜いては斬る、お吉を迎ひの冥途の夜風。はためく門の幟の音、煽(あお)ちに売場の火も消えて、庭も心も暗闇に打ち撒く油、流るゝ血、踏みのめらかし踏み滑り、身内は血汐の赤面(あかづら)赤鬼、邪慳の角を振り立てゝ、お吉が身を裂く剣の山、目前油の地獄の苦しみ、軒の菖蒲(あやめ)のさしもげに、千々の病は避(よ)くれども、過去の業病逃れ得ぬ、菖蒲(しょうぶ)刀に置く露の魂(たま)も乱れて息絶えたり

この話にはカタルシスはないと言っていいでしょう。呪いもなし、復讐もなし。改心もなし。浄化されようがありません。幽霊となって伊右衛門の悪業を裁く『四谷怪談』のお岩さんや、吉良上野介を成敗して主君の恨みを晴らした『忠臣蔵』の赤穂浪士たちのような登場人物はここにはいません。事実はごろりと投げ出されたままです。いずれにせよ近松門左衛門は鶴屋南北ではありません。最後にくだんの放蕩息子与兵衛がお縄になりますが、いずれ市中引き回しされるか、斬首されると私たちに想像はできても、そのような場面はこのお芝居にはありません。カタルシスがないのがいけない、などと言いたいのではありません。ただこの徹底ぶりが近松の意図したものではないかと勘ぐっているのです。もしかしたら、近松はそうすることによって何かに復讐していたのでしょうか。

ちょっと大袈裟な比較をするなら、事実のさなかで新約聖書を書いた華々しい聖書の福音記者たちのような、事実についての超越論的ジャーナリストがいたとすれば、近松はあくまでも形而下的ジャーナリストです。下世話だと言いたいのではありません。端的に言って、形而上学の反対の形而下なのです。その意味では、ここでは、「情」というものともあまり関係がないように思います。近松は冷淡に思えるところがあります。それが作家としての強みであり、強さであるようにも思えるところが。 近松には、暗い事実のヘドロのような泥沼の中から、人知れず顔を出す蓮の葉っぱのようなところがあったのでしょうか。水は淀んだままだし、下のほうは泥だらけ。葉っぱは青々としていますが、葉っぱの上では水滴がころころ転がっているだけです。蓮の葉っぱであって、蓮の花でありません。蓮の葉っぱは強い。季節はいつでもかまわない。雨上がりの晴天になると、水滴が目立ちます。事実という水滴には外の景色が映っています。虹色に光るときもあります。それはわかっています。でもそれでどうなるというのでしょう。私たちは事実の前では無力である、と言えばいいのでしょうか。

水滴にはいろんなものが映っている。たしかに人形浄瑠璃には万華鏡のようなところがあります。人形は鏡です。人形を映すのではなく、人形が映すのです。 人形遣いの吉田和生さんが、難しい技術を見せるのではなく、人形が淡々としていなければならないとき、自然にふるまうのが難しい、というようなことをインタヴューで述べておられましたが、人形がもっていて、同時に人形がわれわれに見せているのは、心の動き、ただそれだけではないらしいのです。人形たちが生きてあるためには、主遣い、左遣い、足遣いの三人の遣い手たちによって息を吹き込まれ、そして人形自体が息をしているためには、人形もまた自然をというか、何と言うか、事実を映し出していなければならないのかもしれません。人形は鏡の像を光の束のように発しているのでしょうか。光でできていることはわかっていても、物理現象としての鏡の像はそれ自身何なのかは非常にわかりにくい、謎めいたものですし、目の前のそこに何の衒いもなくありながら、この世を垂直方向に逆転させ、それでいて事実を装っているかもしれないのです。鏡の向こう側とこちら側では、同じことが起きているとはっきりとは言えないのです。だからこそ事実を映す鏡、鏡である人形は、さまざまな意味で残酷なのです。

この人形浄瑠璃は江戸時代に初演された後、再演されることはなかったそうです。江戸の人々には評判が芳しくなく、全然人気がなかったからです。人々はこの芝居を好まなかった。ところがです。明治時代になって、坪内逍遥によって再び取り上げられた後、今にいたるまで、この芝居は、人形浄瑠璃、歌舞伎、映画などなど、大変人気を博しているようです。 事実、今回の劇場でもやんやの拍手喝采でした。前回観劇した『菅原伝授手習鑑』と比べても、明らかに拍手の多さ強さは増していました。勿論、たぶん今では特に、人形の動きにつれて人は拍手するのでしょうから、人形のキレのいい動き、大きな動きが多かった、そのような芝居だったということもあるかもしれません。それにしても、人形が動かされる、その当の浄瑠璃の内容のほうは、そっけないほど、あまりに非情な事実しか語らないのです。 江戸の人々はこの芝居を好まず、私たち現代人は拍手喝采する。江戸時代には罪人が少なかったなどと言われますが、それは単に逮捕される人が少なかったというだけで、犯罪がなかったからだとはとても言えないと私は考えています。業まみれの、人間の愚かしさは時代によって変わったなどということがあり得ないのは、他の歴史を見ても容易にわかることです。オイディプスの時代から私たちはそのコンプレックスに悩み、苛(さいな)まれていると、誰かさんたちはずっと言い続けているほどです。それに江戸の民衆は犯罪に馴れてはおらず、犯罪に馴れてしまったように誰もが思っている私たちだからこそ、センセーショナルではあっても、「ただの」犯罪や、ただの犯罪者にも拍手喝采するとでも言うのでしょうか。そんなことはないでしょう。それとも私たちは事実について単純な反応を示すことによって、ただただ近松の蓮の葉っぱの上に乗せられているだけなのでしょうか。

最後に、与兵衛は役人の手によって縄三寸に締め上げられ、大声でわめきます。

…人を殺せば人の嘆き、人の難儀といふ事に、ふつつと眼つかざりし、思へば二十年来の不孝無法の悪業が、魔王となつて与兵衛が一心の眼を眩(くら)まし、お吉殿殺し、金を取りしは、河内屋与兵衛、仇も敵も一つの悲願、南無阿弥陀仏

自分の罪を認め、それによって一応の悔恨は語られていますが、これでは何の懺悔にもなってはいません。やはりカタルシスは描かれていません。その後与兵衛が処刑されたのは、この大阪の文楽劇場からほど遠からぬ、千日前の、かつて焼失し大惨事になったキャバレーがあったあたりでしょうか。私はそんなことをふと考えていました。千日、千人の聞く…千日前。芝居がはねて外に出ると、千日前の方角から暑い夜の熱風がまとわりついてきました。

■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、『ザ・中島らも』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。

(2014年7月22日『女殺油地獄』観劇)