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国立文楽劇場

政岡の胸元

中沢けい

新大阪駅の改装工事が終わりかけている。この四月から、毎週月曜日の夜、東京からの最終の新幹線で新大阪駅に滑り込むという暮らしを始めた。改装工事が進むにつれ、新大阪駅が明るくなった。新大阪駅で迎えてくれる赤い着物の文楽人形の表情も、改装前よりもずっと朗らかに見える。舞台では、それほど間近に見ることができない人形も、駅のコンコースであればゆっくりと見ることができる。「今週もまた大阪に無事到着しました」と深夜の駅で文楽人形に挨拶するのが、なんだか楽しみだ。

文楽の人形の着付は人形遣いさんがするのだと聞いた。それから新大阪駅に飾られた文楽人形の白い胸元が気になってしょうがない。人形なのに、ほっこりと温かく匂うような気がする。そんな気がしてきたのは四月に文楽劇場で『伽羅先代萩』を見て以来だ。

主君の命を守るために我が子を犠牲にするという『伽羅先代萩』は、歌舞伎の演目として何度か見ている。文楽で見るのは初めてだ。忠義の乳母の政岡は、堂々とした女性で、主君のためなら我が子の犠牲も厭わないという、今の人間から見るとなんだか怖い女性というイメージがあった。

ところが、文楽の政岡は赤い着物で、ふっくらとした白い頬の若い女性だった。赤い着物は烈女のしるしなのだという。政岡のふっくらとした白い頬は、負けん気の強い若い女特有の矜持の現れに見える。歌舞伎で見た時よりもずっと若く見えたのだ。これは文楽の人形が演じるためなのか、それとも、この私が歳をとったためなのか、どちらなのか自分でも解らなかった。と言うのも、この頃、町で見かける子どもを連れた女性たちはみんな、私よりも年下になっている。孫が出来ても不思議はない年齢だから、子ども連れの女性が誰もかれも年下になっていて、なんの不思議もないのだが、「母親というのはあんなに若いものなのか」と感嘆する気分になることがしばしばだ。だから文楽の政岡が若く見えるのかと、しばらく勝気そうな人形の顔を眺めていた。

いや、これはやっぱり歌舞伎ではなくって文楽だから、政岡の若さが匂いたつのだと、だんだんそう思った。しばらく歌舞伎で『伽羅先代萩』を見ていないから断言はできないけれども、白い襟をたくさん見せた人形の着付からも女盛りらしい温かな香りが匂ってくるのを見ているうちに、どうしてもそう思いたくなった。女盛りと働き盛りがその胸元で良い香りになり、あたりに漂う。

その政岡が主君の犠牲となって死んだ子どもを悼んで、おろおろと動き回るのは文楽の決まりごとだと、これはパンフレットで知った。あれは人形でなくってはできない動きだ。生身の人があれほど動き回っては、子どもを失った悲しみがなにやら滑稽になってしまう。しかし人形であれば、心の激しい揺れ動きをそのまま身体全体の動きとして見せられても、ああ、そうもあろうと頷きながら、やっぱり女盛り働き盛りという言葉が浮かんでくる。若々しい心の盛んな働きが、せわしなく動き回る人形の姿から、温かな体温となって伝わってくるクライマックスであった。

■中沢 けい(なかざわ けい)
作家。法政大学教授も務める。1959年生まれ。高校在学中に書いた「海を感じる時」で群像新人文学賞を受賞。1985年『水平線上にて』で野間文芸新人賞受賞。著書に『野ぶどうを摘む』『女ともだち』『豆畑の昼』『さくらささくれ』『楽隊のうさぎ』『うさぎとトランペット』など。千葉県出身。

(2013年4月24日『伽羅先代萩』『新版歌祭文』『釣女』観劇)